空気と水

2016/02/16 (Tue)
空気と水空気と水は人間が生きていく上で不可欠なものだが、別の意味で「空気を読む」「水を差す」と言う表現にも用いられ、報道ステーションの古舘伊知郎氏は、最近のテレビ番組が「空気を読んで」大衆迎合化している現象に、「水を差す」事がマスメディアにとって大切である事を述べていたが、この発言に「我が意を得たり」の小生である。
※迎合=自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること。
※水を差す=何かをしようとしている人にけちをつけるようなことを言う。
最近は、自説を曲げてまで他人に同調することが賢い生き方で、そうしないと疎外される風潮にある。
例えば、行政が一般市民から公募する「○○委員」に選ばれた方が、会議で自説を述べても、既に落とし所を決めている会議であるから、その意に沿わない意見なら「空気が読めない人」と評され、次回からは「○○委員」として選ばれる事は無い。
一方、「究極のイエスマン」によって構成された委員会は、「市民の声を取り入れた」と嘯(うそぶ)き、無駄な公金支出が粛々と進められると共に、「究極のイエスマン」には多くの公職の口が掛り、行政に逆らわなかった人物として、後には市からの表彰状を受け取る栄誉に浴するのが「空気が読める人」の人生の様だ。
今の市議団は、議会での当局提案に異見を述べる事(水を差す事)が「空気を読めない議員」と解釈しているものか、新文化不幸施設の完工が1年遅延し、その経費の掛かり増しを請負業者に負担させる事無く、「経費割増分は市民の負担とする」議案を満場一致で可決した。
市民が負担しなければならない理由を問うても答える事の出来ない「大衆迎合議員」は市民に取って無駄な存在の何物でもなく、小生は一昨年前に「議員の定数と報酬の半減」を請願したが、益々その思いを強くする昨今である。

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