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米沢の歴史②「マリア地蔵」

kage

2015/10/05 (Mon)


米沢の歴史②「マリア地蔵」

 観光は産業であるとの本市の捉え方に異存は無いが、他の観光地に比べて自然の景観や町並みなどで他の観光地に勝るかと言えば、それ程の強みは無いと思う。
 ならば観光振興策として小生が主張し続けているのが、歴史のによる「物語性」の発信である。
マリア地蔵
 米沢市の観光産業とは、風光明媚の景観を眺める一過性の観光地を売りにするのでは無く、置賜地方を面として、歴史に基づく「文化の物語」を発信して行くべきと考え、色々情報を集めている小生であり、米沢市の北山原殉教遺跡は切支丹処刑場としての認識は有ったが、この度、悲しい歴史として「マリア地蔵」の話を聞いたので披露したい。

 その地蔵は高さ30センチ程で、川西町の「才秀院」に伝えられ、以下の説明書きが添えられていた。(以下「才秀院」の記録より)

川西町文化財指定(昭和48年)

 米沢藩上杉家の縁者でキリシタン信徒 山浦玄蕃、元大舟村の須貝久左衛門宅に人目を避けて住んでいた時に礼拝していた、胸に十字架の印のある石の地蔵尊である、と言われている。
 寛永12年(1635年 今から371年前)8月、京都に住む公卿の切支丹宗徒猪熊光則(山浦玄蕃は米沢に移住してからの名前)は、幕府の取締りが厳しくなったので、京都を逃れ親戚にあたる米沢藩上杉(定勝)家に移住する。猪熊光則は上杉藩主定勝の徒弟といわれている
 しばらく米沢に住んでいたが、幕府からしばしば切支丹取り締まりについての命令が出され、玄蕃の身辺にも探索の目が集まるようになったので、上杉家は正保元年(1644年)12月、玄蕃とその家族を大舟村三沢の農家須貝久左衛門宅に移住させ人目を避けさせることにした。
 須貝家に匿われていたとき、胸に十字架の印のある石の地蔵尊をつくり礼拝信仰していた。そのときの仏像と言われている。
 慶安3年(1650年)幕府からの告達後、須貝家に難の及ぶことを考えたのか、舘山に移住、玄蕃の男子を法音寺にいれ出家させることを願い出て許可される。
 承応2年(1653年)11月26日、ついに幕府により斬罪に処する旨達せられ、12月2日米沢東寺町極楽寺庭で斬首された。

山浦玄蕃光則は、上杉景勝夫人の甥にあたり、切支丹の嫌疑がかかったことから、藩は五年八ヶ月の間大舟の須貝久左衛門家に匿った。承応二年幕府の命令により処刑され、我国唯一の公卿切支丹殉教者といわれている。

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