謙信公の後継ぎは景勝にあらずして「北条氏秀」が、その人だった。

2005/10/18 (Tue)
謙信公の後継ぎは景勝にあらずして「北条氏秀」が、その人だった。「座の文化伝承館」に隣接する土蔵は米沢市保有のものではなく、文化庁の管埋下に入っている。そのわけは上杉古文書の中に国宝指定の文書があるからだ。
かつて上杉隆憲氏がご在命の折りに隆憲氏に請われて米沢市を代表する史家三人「今泉、下平、井形」の三氏が調べた結果、歴史を覆すような文書に遭遇した。
コピー機を土蔵に入れ、時間をかけて貫重な資料を写したという文書の中から「謙信公の後継ぎ」に関する写しを拝見して、目からウロコが落ちる思いをした。
謙信公の後継ぎは景勝公であるが、文書によると謙信公は後継ぎを北条氏秀にすることを約束していた事実を示す文書だった。
謙信公はそれを約する証文と一緒に家老柿崎の子供を、人質として北条方に送り証文の担保とした。
それに答えて北条方からは「約束は守る」という起請文が上杉方に送られてきた。起請文とは神社のお札の裏を使って書かれたもので、その時代の証文としては最高のものとされていた。
実際には謙信公の後継ぎは景勝公となった。約束を破られた北条方は証文の担保とされた家老柿崎の子供を当然ながら殺害する。
そこで景勝は北条三郎氏秀の子供(道満丸)を殺害しようとしたが、上杉憲政や景勝の妹の懇願によって一命をとりとめ、米沢市の田沢地区に匿われていった。
と話は続いていくのだが「今もって米沢藩祖を謙信公とするのはおかしなことだ」「景勝公を米沢藩祖にすべきが歴史上正しい」というお説だった。
米沢の歴史を根底から覆す大事件である。それにして謙信公の証文と北条方の起請文の発見は歴史上において貴重なものである。多くの市民が知らないところで歴史の真実が浮かび上がってきたということだ。歴史の真実とは? かくのごとく後日創られたものも多いが、実在する古文書が証明する米沢藩にまつわる意外な歴史的事実である。

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