父兄 様

2015/03/24 (Tue)
父兄 様ご子息が山形大学工学部を卒業された由、誠にお目出度う御座います。
ご子息が三年間過ごされた米沢市の印象を、どの様にお持ちか大変気になるところであります。
小生は「米沢御堀端史蹟保存会」に40年以上所属している事から、物事を見たり考える時に、どうしても歴史的背景を考慮する習慣が身についてしまったようで、歴史的背景というフィルターを通した小生の米沢市観を述べてみたいと思います。
米沢市は、関ヶ原の戦いで豊臣方に組し、敗れた上杉景勝公が、会津120万石より30万石に減移封となった、上杉謙信公を藩祖とする城下町であります。
それぞれの城下町に、今でも歴史に培われた気風が大なり小なり受け継がれているものと思いますが、米沢藩は、徳川に逆らった外様大名故、幕府からは監視の目が注がれていた事は想像に難くありません。
小生が幼少の頃、祖父母より「旅の人には気を許すな」と諭されたものですが、「旅の人」とは、決して旅行する「旅人」に非ず、排他的な「よそ者」の意味合いで、特に関東地方から来られた方に使われ、江戸時代の密偵を警戒した名残と思っております。
米沢市にほど近い城下町の会津若松市には「会津の三泣き」という言葉があり、その意味は「会津に来た当初は閉鎖的な人間関係に泣き、会津の地元になじむと今度は人情の深さに泣き、会津を去るときは会津人の人情が忘れ難く泣く」と言う事で、米沢・会津人とも、初めは排他的で閉鎖的に映るかもしれませんが、一度なじめば、生まれた時からの既知の間柄のように温かく接してくれる気質と、藩祖謙信公が、長年敵対関係にあった武田信玄が経済封鎖をされ、塩不足で困窮していたとき、塩を送って助けたという「敵に塩を送る」の度量をも引き継ぐ市民であると思っております。
ご子息が米沢を去る時、「米沢人の人情が忘れ難く泣く」心境になられたか定かではありませんが、そうであったと願っております。
最後に付け加えますと「鬼の会」は安部三十郎に対し、会津魂の「ならぬことはなりませぬ」の訓の実践と思っております。

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