「そういちろう」さんの「不倫論」と「公務員論」を考える。

2005/06/08 (Wed)
「そういちろう」さんの「不倫論」と「公務員論」を考える。本会のホームページに書込みが多くなってきたのは歓迎するものですが、少し程度が低いのではとの疑念があります。そこで小生も突然ですが参入させて戴きます。
哲学的にはこの問題は「性愛の話」です。性愛の問題は議論することではなく実践することだと考えていいと考えます。人はあきれるほど性愛を好むものです。直接的いたすことにとどまらず、手段で疑似体験を重ねるものです。性愛という一語から、人間世界をのぞいてみれば、まさに百花繚乱、死臭ふんぷん、国破れて山河あり、というところです。つまり、どうにでもいえるということでしょう。衣食住が人間の生存の三条件のようにいわれますが、性欲がなければ人間は生存していないわけです。人間がきわめて苛酷な条件で生き抜いてこられたのも「いたすこと」が生きる励みになってきたことに論をまたないわけです。実際、貧乏人の子だくさんという例があります。貧しい国には人口爆発があるのですから。勿論、人間以外の生物だってみんないたします。しかし、それは生理現象でいたすので、人間にしても生理でいたすことは事実です。しかし、回数からすればほんのわずかで、つまり人間の性愛は生理作用とは同じではないということになります。人間は「いたすこと」が好きなだけでなく、無制限にいたすのです。無制限ということは無秩序への傾向をつねに秘めているのです。どんな制限や抑圧でも抑えることが難しいものです。だから、野放しの自由な性愛の充足を「淫らなもの」「社会にとって危険なもの」「野獣同然にするもの」とみなそうとしてきたのだとしたのです。しかし、野獣動物を疑人化してみると、まさに「禁欲存在」なのです。必要以外に野獣動物は「いたさない」からです。
はなはだ乱暴な言い方をすれば「気持ちに関係なくいたすことが出来るのが人間」なので、「A」という関係に満足していても「B」という関係が現われたら満足のいかんにかかわらず、新しい関係に引かれてしまう。これが性愛の万有引力の法則というもので逆らいがたい法則なのです。だとしても、すべてを望むことができず多くは一つの実在的関係で一生を終えるのが通常であって、男女のカップルだけでなく、あらゆる組合せで性愛を満たそうとする広大無辺の世界だといえましょう。これが性愛の哲学的な考え方で、「不倫」によって「子ばなし離婚」などのケースは人間界では日常茶飯事の出来事で一々問題視するのはあたらないことだといえましょう。
リオのカーニバルとは「無礼講」を意味し、祭りの期間中はだれとでも自由に「いたせる」祭りだと聞きます。他人のことをとやかく詮索し噂にするのはあなたの世界だけに止めておいた方が無難というものでしょう。
劇作生として意見を述べるならば、世間の常識の範疇では考えられない「性愛」が存在します。だから人間社会のドラマがあるのです。小生らはそんなドラマを書くために劇作に精進しているのかも知れないのです。
社会の常識を十分に熟知しながらも性愛に苦しむ人間の苦しみや悲しみと同時に、社会の常識の壁を越えなければ到達できない「愛」の姿もあるのです。
人間同志のコミュニケーションはどんどん広がりをみせていくものですが、カップルの場合は閉鎖的で二人だけの世界になっていきます。「性愛」はカップルの間ではあからさまであっても、第三者に対しては閉じられる秘密なのです。だから自分の性愛をとくとくと語るのはルール違反を犯していることになるのでしょう。「そういちろう」さんに一言。他人の性愛に興味の目をもたないことだと思います。

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