白紙撤回の意味(中央商店街再開発プラン)

2005/03/16 (Wed)
白紙撤回の意味(中央商店街再開発プラン)よくぞ陳腐な計画を立てたものだ。議会の総反撃に遭うまえに安部市長は自ら白紙撤回の意志を決め、市街地再開発関連予算を取り下げた。
大沼の不参加、市内医療法人になる五階建ての病院建設案の撤退に次ぐ、3度目になる再開発の頓挫である。
商工会議所は「今回の事業は組合施工で公共事業性の高い民間事業であり、権利者不在の議論は非常に遺憾だ」と述べ再開発準備組合は「残念無念の一言につきる」とコメントしている。が、いくら開発を急ぐからといって、あの地域に図書館を建設するなどの計画は、はじめからそぐわない計画だったとして行政側は猛反省すべきであろう。
市民の多くは反対の構えであったようだが、当該地域の開発は当該商店街で営業を営み今後とも商店街の発展のために寄与する考えの人たちの熱意が問題になっていた。
言い方は不遜だが、当該地域の人々は常に米沢市の中央商店街だとして、行政にオンブしてきたものが多いと思われる。
旧市役所・旧警察署の存在によってそれほど努力しなくとも営業が成り立ってきた過去に甘えている。ひとりでに地代は高騰し地域の価値観が上がっていく。賑わっている時にはサラキンが密集しサラキン通りといわれたものである。いつしか、サラキンにも見離され、文字通り過疎のシャッター通りとして転落して行くことになる。
街の繁栄を守り抜くためには、常に商店街共同の町づくりについて論議を重ねている必要があった。お互いさしたる努力もしないでも一等地だとして、個々の営業は成立していただろう。が、重要なことは共同した眼で現実を見つめていなかったことにある。
人は人に集まるものである。一時、あれだけ騒がれ人離れした浅草だが、土地に住む人たちの努力によって、元通りに近い浅草の賑わいが戻っている。この回帰は住民の努力以外になかったものである。
中央商店に再び賑わいを取り戻すには、いくつかの方法が考えられる。が、口幅ったいと言われそうだから遠慮するが、奇想天外な発想でもしない限りあの街からシャッターの上がることはないだろう。街づくりというものは、理屈抜きにした発想が柱になるだろう。
真から行政や会議所が再開発に情熱をかけるのであれば、あの地域にいて営業している人たちの総入れ替えが必要となってくるのではあるまいか。そんな勢いに乗った開発案で望むならば何かが見えてくるものであろう。

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