伝国の杜の「能楽堂」は故板垣知事が木村莞爾に贈ったものだった。

2005/03/03 (Thu)
伝国の杜の「能楽堂」は故板垣知事が木村莞爾に贈ったものだった。多くの米沢市民には知られていないことだが、なぜ米沢市に能楽堂か?と不思議に思われる市民が多いものだ。
今だから明かそう。能楽堂の建設は前高橋市長の発案であったというのは全くあたらない。 私が断言する。能楽堂の建設にまつわる話については、小生もいささか関係したから事実は故板垣知事が木村莞爾(当時県会議員)の業績に報いたものだった。
平成4年、7月6日山形県議会6月定例会の最終日のことだ。板垣知事から木村県議に電話が入った。
板垣の頼みは「私が会長を務めている歩兵二百二十聯帯、平たくいえば山形雪部隊の慰霊がニューギニアのサルミ地区に眠っている。今大戦中の激戦地で血を血で洗うような死闘を繰り返してきたところだ。山形雪部隊玉砕の地でもある。サルミに上陸した3千5百65名中、生還した兵士6百25名、いいかえればサルミの密林の中で英霊の多くが、さ迷っているということなんだ」 知事は言葉をつづけた。
「玉砕した雪部隊の英霊たちが毎晩私の枕元に立って眠れなくて困っているんだ。なんとかして英霊たちの遺骨を収集して国分寺薬師堂に収めたい。君の父上とのきずなを生かしてニューギニアから分骨してもらうわけにはいくまいか」
「やりましょう」木村は知事に約束し遺骨収集の県議団長として完璧に成功させ、知事の願いをやり遂げた。
「遺骨は小さいけれど、君のなした仕事は大きい」と現地の国防大臣の見送りを受けて無事、遺骨は遺族と知事の待つ山形の地に到着した。
このくだりを小生が1冊の本に書いたことから、事実は事実として市民に知らせるべきだと思ってきた。木村の功績に報いるために山形県が米沢市に贈ったのが能楽堂なのである。
能楽堂になった理由は他にもある。金剛流の謡曲仲間、特に代表となって能楽堂の建設に熱心だった井形朝臣氏の熱意を受け木村が応じた結果によるものだから、前市長高橋の創意によるものでは決してなかったのだ。
木村は何も語らないが、高橋の叙勲の席で配られた高橋の業績の中に能楽堂の一説が載せられていたことを悲しむ人たちがいたのを知って、間違いは正さねばならぬと思い書いた。
能楽堂は木村完爾が知事から贈られたものを、井形氏らの要請に答えきった米沢市の文化の施設だと思い直していただきたい。

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