どこまで滅びれば気づくのだ

2004/04/03 (Sat)
米沢に住む市民ならば街の周囲を見渡してほしい。まず、花形産業といわれた家庭電気器具商店の店先には品揃いはなく、店舗内の照明さえ消えているところが多く見うけられる。どこの街にもあった青果物店や鮮魚店の影は全く見当らずシャッターで固く閉じられている。まさしく市内の商店は軒並み、たちゆかなくなり廃業の一途を辿っている有様である。かつて米沢市は歴史的にも敗北の道を辿ってきた。近世になってさえも敗北の道を辿ろうとするのか。北部道路沿いに立ち並ぶ大型店は資本力に任せて品揃いも完璧に近く、価格もそれなりの構成であって一店で希望の品が揃うという魅力と便利さはたしかに存在する。さらにユーザーを満足させるに十分な楽しさもある。この便利さをユーザーから取り上げようとすることは何人にもできない、が、しかしその煽りをモロに受けた業界は閉店以外に道はないという社会構造になってしまったようだ。これは一に行政の怠慢であり力不足である。いうなれば米沢百年の計どころか、時代の急速な流れを適確に認知し対応に手をこまねいた証の何ものでもない。米沢市民は永年、それなりに米沢市内の商業と調和して暮らしてきたはずである。行政のいう「間」にあってきたはずである。行政に先を読む先見の目があったならば、無秩序に大型店の進出に歯止めをかけられたはずである。「米沢市民には間にあっているから」と大型店の進出を阻めたはずである。行政は「県が許可したものだ」といって逃げをうって責任逃れをするが、相手が県であれ国であれ、米沢市が食いものにされるのを防ぐためには命を張って阻止すべきだった。その点では市議会も商工会議所とともに同罪である。
たしかに従来の商業道徳や商取引上のルールなどは無視される時代になった。同時に米・塩・酒などの価格撤廃によって、ユーザーに良い感じを与えてこなかった殿様的商売も廃棄されたようである。問題は地域社会という広い視野で見つめてこなかった行政の怠惰は米沢市を限りなく滅びの街に化そうとしている。いまさら中央商店街をあげるまでもなく、元ジャスコ・ファミリーデパートなどの跡地姿は撤退、移転と相次ぎもはや瓦礫と化している。たった十数年間の中心商業地にすぎなかった。八幡原工業団地は旭コマグがたった十四年で撤退。行政の誘致企業の選定にも甘さが見られる。行政はそれでも市民の付託に応え得る仕事をしてきたと胸を張って言えるのか。退職と同時に何も彼も責任を追求されずに済むという不思議な組織の中で「過ちを認めず、市民の言うなりにならず、常に市民の上位に君臨すること。それが役人の価値だ」
市民よ、いっしょに怒ろうではないか。鬼の会は行政の不合理さ、尊大さに徹底して戦う用意がある。いま、行政を相手どって訴訟を準備している。勝ち負けは問題ではない。眠れる世論を呼び起こす原動力となるためだ。

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