雲丼鎮魂祭りに参加して

2004/02/23 (Mon)
二度目の参加であった。降る雪もなく夕映えの斜平山を借景として雲井の墓石は常安寺に建立されている。「義雄院英心常英居士」碑を囲むようにして、こぶしの芽が遅い春を待ちかねるように膨らみを見せている。住職の読経がすすむ間、70余名の焼香が行なわれ郷士の英傑に鎮魂の祈りを捧げた。墓前の吟詠「客舎壁」は龍雄の詩人革命家としての迸る気概をほうふつとさせるもので、新政府転覆をめざした龍男の傑作だが、通釈には手心が加えられていたようだ。龍男ゆかりの縁者は龍男の反逆罪を認めようとせず無罪を証明しようとしているがそれは無理というものであろう。新政府の非合法活動をしている薩長出身者に憤慨し「討薩檄」を作成して東北各藩に送達したことは知られている事実だ。歴史家にとって異議はあるだろうが、龍男が斬られたのは小伝間町の牢内である。
小生、劇作家として初めて舞台専門誌に掲載されたのが雲井龍男捕縛前夜「白布峠の雪」であることから、龍男を小生は文学的にとらえてきた。
龍男の首を落としたのは山田浅右衛門の孫吉亮十七才である。龍男は二十七才の若さで小伝間町の土壇場の露と消えたが、米沢市は詩人革命家の存在に誇りをもって然るべきであり、龍男無実論はあまりにも米沢的で女々しくはないだろうか。
科書(とがしょ)が読み上げられ同志の原一鉄、三木勝、大忍坊、梁瀬勝吉、浄月坊らが次々と処刑されたが、まず龍男が最初に土壇場に向かっておもむいた。五尺そこそこの小男である。吉亮はこう述懐している「全身から溢れる精悍の気は、苛酷な拷問に耐えてきたのもさこそと思わせるものがあった。全身の鍛えぬかれた筋肉は刀をすらはじきかえすような気迫があった」そして吉亮は「掛縄を切って差し上げなさい」と言って九寸五分の小脇差で掛縄を切る。龍男はにっこりと笑い「忝ない。拙者は雲井龍男と申す者、冥途の土産に御尊名をうけたまわりたい」「山田浅右衛門吉利が三男、同苗吉亮、当年十七才にございます」「おお、お若いのになかなかの御挨拶。ご造作をおかけする」「なにか言い遺されるお言葉でも--」「いや、いまさらありません。ただ、お差し支えなければきょうの刀の銘を--」「備前岡山の住人、東多門兵衛尉藤原正次、二尺一寸五分をたずさえて参りました」「さすがでござる。そこまでのお心づかい、重ねがさね痛み入れます。では、見事、お願いつかまつる」「かしこまりました。お心置きなく」龍男は莞爾として正面を向き、みずから首を差しのべる。吉亮は目を半眼にとじて「諸行無常 是生滅法 生滅滅己寂滅為楽」と結んだとき龍男の首が落ちた。
明けて明治四年元旦から斬首刑にかわり絞柱による絞首刑になる。龍男らの処刑に先立つ二十日に太政官は新綱領を発表し二十七日付けをもって全国の藩に頒布していた。龍男は最後の斬首処刑者とされたが、新政府はいかに雲井龍男の存在を畏怖したことかが証明される。

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