米沢藩は敗者の歴史

2004/02/22 (Sun)
置賜の歴史をみると、すべてが敗者の歴史である。関が原の戦さに破れ忠臣蔵の世論に泣いた。さらに維新には奥羽列藩同盟ゆえに敗北し辛苦を舐める歴史だった。考えてみるがいい、海に縁のない山国から多くの人材が海軍軍人となって海に消えた。それはなぜだ。郷土の先人に泥ぬるつもりはないが、戊辰戦役で官軍の長岡攻略がおわり、会津に攻撃の矢が向けられ最後の合戦場となった戸のうち原に、米沢藩が応援にきたと知った官軍は攻撃を中止して米沢藩の出方を見守っていた。色部指揮する米沢藩は十六水門橋に出向いて雷筒を放ち「義理は済んだ」として引き上げたのだという。
長州藩の米沢藩に放った檄は「その所業武士にあらず、未来永劫政治の枢軸に登用させるべからず」。米沢に「滅びの美学」はない。上杉の亡霊だけが今もってまとわりついている負の歴史をもつ町の認識が足らない。
歴史的な背景から考えてみると、暴論になるかも知れないが米沢の優秀な人材の多くは軍人となったが、その多くは海軍であったことを考えると戊辰の役に長州が吐いた言葉は米沢藩抹殺の檄だとしか思えてならないのだ。

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