やはり日本は亡びるのか!?(おきざりにされてきた心の問題)

2004/01/23 (Fri)
かつて勝海舟は「国唯自亡」、つまり「国というものは決して人が取りはしない。内からつぶして、西洋人に遣るのだ」といったことがある。海舟がこう 予言したのは、明治二十年代のことだったが、その時期がついに到来したのかも知れない。国を「遣」ろうとしている相手が「西洋人」なのかどうかはかならずしも判然としないけれども、国を「内からつぶそう」としている力は今や 縦横無尽に作用しつつあるといわざるを得ない。と江藤淳氏は著作「日本よ、亡びるのか」で論破している。今朝のニュースは医科大学の病院への医師免許貸しが報道されている。名義 借りまでして病院の対面を繕ろわねばならぬ医療の不確かさ。診療もなく名義を貸すだけで異常な高収入を得る医師の現実とは。「医は仁術」から「医は算術」に変わり今やまさに「医は忍術」の時代に突入した感がある。医術とは病める人たちを病気から解放する仕事であったはずだ。だから医師は人たちから 尊敬も受けた。僧侶も同じだった。そこには医師と患者、僧侶と壇信徒との間に相互の信頼感があったからにほかならない。信頼とは心の問題である。その心がいまはない。医師は医師の、僧侶は僧侶の一人称の立場で行動するように なった。対象はいずれも弱い立場におかれた人たちが相手だ。弱者対強者の立場においてあらがう手段は弱者にはない。したがって、心のない世界では強者 の思いのままである。これが心を喪失した戦後民主主義国家の形骸である。
戦後の崩落した国家再建のために汗を流した人々は老齢化し、次期世代は経済万能主義に成長してきたが、同時に日本国家は「心」の重要さを教育してこなかった。日本には「教育勅語」という日本人の規範とすべき精神論が示され ていた。世界から評価されている「教育勅語」は敗戦と同時に埋没して今はない。日本人の精神的退廃の行き着くところは精神的砂漠化であり国家滅亡の危 機ではあるまいか。政治家業はさらなる集金主義に、学歴社会が学歴詐称さえも生む。山形県議会の伊藤耕次郎議長は東京豊大卒業と堂々公言して詐称を問われる前に死去。酒田北高定時制が最終学歴だった。
ひと頃、問題になった高橋知事の「笹かま」事件。中身の二千万は知事の懐に収まったという常識論が復活している。鹿島建設が病院建設の謝礼として送ったものであり、知事不在中に保管していた出納長は引責辞任したことになっているが、さらなる高待遇の任地先が用意されていた不思議。天下の腰くだけ加藤代議士も鹿野代議士も一皮剥けば配金主義者の類。故鈴木金造決死の著作、某地元代議士の恥部を書いたものが一部流出しているとの報が入ってきた。幻の著すでに一部流出し弁護士が介入しているという。ぜひ手にしたいものだ。
世に出れば選挙民、仰天の裏ばなしの連続だとか。

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