20年の縛りから自由の風吹く市政へ

2003/12/30 (Tue)
本来、水は高きから流れ民衆を潤しつづけるものである。20年の高橋市政によって市役所職員の悪癖がとみに強く市政に反映してきた。と思われるふしがある。六中の体育館入札の発表間違いからはじまって、間違いを素直に認めないで突っ張りぬいた町田総務部長の公務員らしからぬ不遜さ。そして市長選挙は絶対視された本命の元助役の劇的な大敗。この原因は市民の公務員に対する反発だった。しかも、選挙事務所に張りついたのは元市役所職員たちだった。国会議員一名、県会議員3名、市会議員28名中18名、他に地区委員を配しただれが見ても不敵の布陣であった。結果は惨敗におわった。底流に流れている市民の激流に気づかなかった敗選だった。
この結果にどれだけの市民の胸ん中をスカットさせたことか。あの平家が伊豆の山だしの源氏に破れたことも不思議な現象だが、戊辰戦争で幕府が明らかに劣性といわれた薩摩長州軍に敗退したのは歴史の証明するところだが、敗因の主因は奢りにあった。「米食った犬が叩かれず、糠食った犬が叩かれる」ような市政では市民が浮かばれない。「投票は弾丸よりも強い」のである。リンカーンはそう叫んで大統領になった。 米沢市を形成し支えているのは米沢市民である。市の職員給与は米沢市民の税金で賄われている。まず、彼らにはその自覚が欠如している。そして退職後は永田町の官僚同様、天下りして相も変わらず親方日の丸的な微温湯にどっぷりと浸かっている。
米二中教育会報で上杉秀雄元学校長が述べている。現在は米沢市上杉博物館館長の要職にある。その館長は「おかげさまで博物館も文化ホールも多くの方に利用いただいております」と書いた。呑気な商売意識だなと市民は憤慨する。入場料やホールの使用料合わせて4千万弱の収入がいかに少ないかの認識に欠けている館長だ。必ずしも入場料やホール使用料で建物の維持管理費や建物の返済金を賄えとはいわないが、経営という感覚をもった発言をしてもらいたいものだ。経営感覚をもたない館長であれば単なる名誉職というに過ぎない、いわゆる天下り族で市民が嫌う閑職ということになる。
小生の祖父母は教員であり、祖父は学校長であった。昔の教員は貧しさに耐えながら聖職という誇りに支えられていたから、子弟の教育には全力を傾注したものであろう。
暗記力だけが学力を評価する現代と違って、労働の重要さを教えられて育ってきたように思う。勉強一辺倒主義からこども部屋をあたえ、部屋にこもってさえいれば親はこどもが勉強しているものだと錯覚している。こどもが一番嫌いなものは勉強を強制されることである。マンガ本やゲームをやる方が楽しいのだ。それがこども達の感性なのだ。勉強を強制する前にこどもらしくその年代にふさわしい遊びを堪能させるべきだと小生はむしろ人間にとって大切な情操教育に力を入れてきた。親から離れたところでもキチンと生きられるような教育がどれだけこども達に幸せをもたらすことになるか。教員のこども達が社会的に立派だという証拠はない。むしろ逆のケースもある。上杉館長に望みたいことは教育者は人に教えるものだという感覚を捨て、むしろ社会学を身につける努力する目を養っていただきたいと思う。そして博物館のもつ使命と経営という難しい問題に全力をあげてほしいと願うものだ。

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