四公法要に参列して①

2022/09/12 (Mon)
四公法要に参列して①10/11に法音寺にて、上杉家二代藩主 景勝公400回忌・六代藩主 吉憲公没後300年・十代藩主 鷹山公没後200年・十一代藩主治広公 没後200年、の四公法要が執り行われ、小生はこの法要に参列した。
上杉家では、歴代藩主が亡くなられた後、50年毎に法要を行う慣わしと言うから、次回は50年後となると、今回参列された殆どの面々に次回のチャンスはなく、今回参列することへの喜びを感じたのではないか。
市民にとって景勝公や鷹山公は馴染みのあるものの、吉憲公や治広公に付いては全く知らないと言うのが実状ではないか。そこで簡単に吉憲公・治広公ついて紹介したい。
【第6代吉憲公】
・生誕:貞享元年11月8日(1684年)米沢城にて生誕。
・死没:享保7年5月1日(1722年) 39才
・生涯
元禄15年(1702)赤穂事件により、祖父の義央公が命を落とし、弟の義周公が信州諏訪の高島藩に幽閉され、父君(綱憲公)は心痛のあまり、病床に就かれ隠居された事から吉憲公は第6代目の藩主となる。
その翌年、6月に父君(綱憲公)、8月に祖母(義央公正室)、その2年後には弟(義周公)が亡くなられるという大変悲しい出来事が続く。
宝永元年(1704)幕府から江戸城石垣修理が命じられたため、領内商人や家臣から物成借り上げを実施して費用を作る。
【第11代 治広公】
・生誕:明和元年7月11日(1764)米沢城にて生誕
・家督相続:天明5年(1785)鷹山公隠居に伴い家督を継ぐ
・死没:文政5年(1822)米沢にて逝去 59才
・生涯
家督相続に当たり、鷹山公から藩主の心得三ヵ条が贈られた。その内容は「君主たるものは国家(藩)・人民を私物化してはならない。君主は国家・人民のためにあるのであって、君主のためにある国家一人民ではない」というもの。治広公が藩主となった天明年間は大飢饉と改革の指導者たちの引退で改革が中断するも、鷹山公や莅戸善政の積極的な指導もあり、養蚕・織物等の産業が興隆し、農村の復興も軌道にのって藩財政が好転する等、改革の成果が表れた時代であった。
【続く】

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