河井継之助を知っているか②

2022/05/27 (Fri)
河井継之助を知っているか②河井継之助の長岡藩は7万4千石の小藩でありながら、2万の新政府軍を相手に善戦し、後に日本陸軍の石原莞爾が徹底的にその戦いぶりを研究したと言われる戦略家である。
一方、藩政の改革を行い財政を豊かにし、「民は国の本 吏は民の雇い」と民主主義を唱えて民衆から慕われたが、新政府軍との戦いで命を落とし、新政府軍に敗れた長岡藩は石高を2万4千石に減らされたことにより財政は極度に窮迫し、士族の中でも日に3度の粥すらすすることのできない者がいるほどであった。
この窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られ、食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であったが、藩の重鎮小林虎三郎はこの百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。
国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされ、ここに長岡の近代教育の基礎が築かれた。後年、ここから海軍の山本五十六元帥など新生日本を背負う多くの人物が輩出され「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。
小林虎三郎は語る
「この米を、一日か二日で食い潰して後に何が残るのだ。国が興るのも、滅びるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校を建てたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、計り知れないものがある。いや、米俵などでは、見積もれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本は生まれないぞ。……」と。
【続く】
長岡市 「千秋が原ふるさとの森」にある「米百俵の群像」は、小林虎三郎の考えに、多くの士族が反対する山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演した時の一場面。


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