河井継之助を知っているか

2022/05/25 (Wed)
河井継之助を知っているか米沢で彼の名を知る人は極めてまれであろう。
その人物像は、長岡藩(現在の新潟県長岡市)の上級武士の長男として生まれ、剣術や学問に励み、1852年、25歳で江戸に出て佐久間象山(さくましょうざん)の下で蘭学や砲術を学んだ後、39歳のときに藩の郡奉行となると、庶民の暮らしが豊かになるよう、財政立て直しなど藩政改革に努めた。
1868年(41歳のとき)に起こった戊辰戦争で、長岡藩は新政府軍と旧幕府軍のどちらにも与しない「中立(ちゅうりつ)」の立場を明らかにし、戦争を避けるため、両者を和解させようと訴え続けたが、長岡藩の立場は新政府に聞き入れられず、やむなく旧幕府軍として「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を組んで北越戦争に参戦した結果、長岡周辺の地も戦乱に巻き込まれ、日本に3門しかない「ガドリング砲」(機関銃)を駆使し善戦するも、河井継之助は新政府軍の銃弾を受けて亡くなり敗北した。
簡単に紹介すると以上だが、もっと知りたいなら河井継之助を主人公にした遼太郎の傑作歴史小説「峠」を原作とする映画「峠 最後のサムライ」(主演・役所広司)が今年6月17日に全国で封切られるので覧られると良い。
長岡市は6月に「峠 最後のサムライ」が封切られることから、各地の観光業者を伝(つて)に河井継之助ゆかりの地を訪れるコマーシャルメッセージに釣られて、今月の15~16日のツアーに参加した。
そして、小生は河井継之助よりも長岡藩と長岡市に興味を抱いたので次に述べたい。
【続く】
只見町記念館のガドリング砲(模型)


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