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米澤城二の丸のこと

kage

2022/02/08 (Tue)

米澤城二の丸のこと

 現在「NHK米沢ラジオ中継放送所」のある場所は、初代米澤藩主「上杉景勝公」の「米澤城二の丸」跡であり、そこには他に類を見ない21もの寺があったという歴史的に希有な城である。
 小生はNHKに移転を求め、この史実を観光資源に活用すべきと活動してきたが、無料貸与から60余年を経た2024年、米沢市に返還されることとなったことを踏まえて、明日、市の担当者との話し合いを行う。その資料として「米澤城二の丸」を調べ、以下に記すので訪問諸兄の意見投稿を願いたい。

【米澤城二の丸跡のこと】
 慶長六年(1601)の初冬、米沢に入った藩主景勝は二の丸を普請してここに居住し、同九年(1604)には門・塀・隅櫓等の改築に着手した。
 城門は東西南北に四箇所で、東門が武者溜まりと馬出しを備えた大手門すなわち正門である。二の丸でも東北と西北の両隅に白壁造りの櫓が造られたが、本丸と違ってこれは二階建てであった。西門の場所はこの西北隅の二階櫓に接した南側の部分であったが、城門の建造物はつくられていない。また、厩に隣接した北門の外側部分にも馬出しの広場がつくられている。これらの城門と隅櫓をつないで土居がめぐらされ、その外側には堀が掘られていたが、土居の高さは二間から二間三尺と本丸よりも低く、堀の深さも二間から二間三尺で本丸の堀よりは浅かった。土居の上の塀は板塀であったが、寛文三年(2663)に白壁に造りかえられている。また、隅の櫓だけでなく大手門の北方と南門の東側部分の土居の上にも白壁の二階櫓が建てられていた。これも享保の城下絵図では更に三箇所ほど増設されており次第に城郭としての威容が整えられていった様子が窺える。
 最初、二の丸の大半は上中級家臣団の侍屋敷に割り当てられ、色部・志駄・平林・安田・須田などの重臣で固められ、北辺の色部屋敷の西隣には牢屋敷もつくられている。二の丸の西側の堀と堀立川の中間部分、及び二の丸南門から西へ出た地点には空堀が掘られ内側に土居が築かれていた。
 三の丸が造成されると、これらの侍屋敷は三の丸の要所に移されて、二の丸には御勘定屋を初めとして、鉄砲蔵や矢蔵などの武器庫、特産品の蝋などを収蔵する幾つもの土蔵、藩役人の詰所にあてられた長屋や藩召抱の職人たちの仕事場である作事屋、そして北門から西部には廐が設けられている。

 本丸にある御堂の祭祀を司るものとして、霊仙寺のみ本丸内に本拠を構え、御堂に朝夕配膳を行う役目を負っていたが、特に、謙信への本膳は年中霊仙寺の役目であった為に二の丸にも霊仙寺役宅を構えて、六~七名の御膳衆で調理を行い、通常使用されない菱(秘シ)門から本丸内に運び、据膳していた。

 また、二の丸には御堂に奉仕する寺院が、法音寺を真言宗の筆頭として二一ケ寺が造られ、毎月一三日の謙信の命日、毎月二〇日の景勝の命日の修行、毎月一日・一五日・二八日の仁王経の奉読などの他、毎年三月十三日の謙信の命日にむけて三月一日から十三日までの間は千部経の執行が恒例とされていた。寛文五年には百回忌が執り行われ、享保十二年にも一五〇回忌が催されている。米沢藩にとって上杉謙信は正に神格化された存在であったと言えるであろう。

 御入水の用水は二の丸の堀を越えて大手門の西側から二の丸に引き入れられ、更に二の丸からは内堀の上にかけ樋が渡されて本丸内に導かれている。当時、米沢城と呼んだのはこの二の丸曲輪までで「米沢雑事記」によれば、二の丸の大きさは北辺から順に一六七間、二一三間、一八〇間、一九八間であったとされているが、本丸・二の丸共に南北方向よりも東西方向の方が長いつくりになっていたから、この数字は直線的ではなかった土居の長さを示したものであろうか。
 後に、高家筆頭の吉良家から入って上杉米沢藩一五万石を就封した綱憲の代には、江戸育ちの新藩主の意を受けて能舞台や新御殿が二の丸に建設された時代でもあった。

 明治維新後、新政権が出した太政官布告「神仏分離令」と明治三年(1870)に出された「大教宣布」、そして廃仏毀釈運動から二の丸にある寺院は移設・廃寺となった。

 そして明治二十九年(1896)、この米沢城二の丸跡に、敷地約5、000坪、建坪530坪という壮大な上杉家十四代茂憲(もちのり)伯爵邸が、池田成章の設計・施行で建設、「鶴鳴館」とも呼ばれ皇族の御宿所としても利用されるほど豪勢な造りであったが大正八年(1919)の米沢大火に巻き込まれ焼失した。
 その後、大正十四年に上杉家十五代当主・上杉憲章が米沢で過ごす際の邸宅として、設計は山形市の『山形県旧県庁舎』(現・文翔館)も監修した米沢出身の中條精一郎、施工は上杉家御用達の名棟梁・江部栄蔵により、現在の上杉伯爵邸が完成した。
 建坪は285坪とほぼ半分になったが、母屋を始め仏間棟、子供室、東土蔵、北土蔵、門などから構成する大規模なもので屋根は銅板、造作材に木曽檜や欅を使用すなど素材から吟味され、工法も派手な彫刻を押える事で質の高さが感じられる。又、庭園は浜離宮を倣ったものとされ林泉寺庭園、法泉寺庭園と共に米沢三名園の一つに数えられている。

 第二次大戦後の昭和二十年には、米沢に進駐した米軍将校の宿舎として使用されたが昭和二十五年に接収が解除されことにより米沢市が上杉家より譲り受け、中央公民館として市民に利用されてきたが昭和五十四年(1979)に上杉記念館と称し、市内観光の中核施設として観光客や市民に開放される。主に、郷土料理の提供、資料展示など。米沢の郷土料理の原点とも言われる、鷹山公の「かてもの」を味わうことができる米沢唯一の館として現在に至る。

上杉伯爵邸は、国(文化庁)による登録有形文化財に登録されいる。
06-0007 米沢市上杉記念館 大広間・玄関棟 平成9年(1997年)06月12日
06-0008 米沢市上杉記念館 客間棟 平成9年(1997年)06月12日
06-0009 米沢市上杉記念館 仏間棟 平成9年(1997年)06月12日
06-0019 米沢市上杉記念館 子供室 平成9年(1997年)12月12日
06-0020 米沢市上杉記念館 使用人室 平成9年(1997年)12月12日
06-0021 米沢市上杉記念館 警護棟 平成9年(1997年)12月12日
06-0022 米沢市上杉記念館 東土蔵 平成9年(1997年)12月12日
06-0023 米沢市上杉記念館 北土蔵 平成9年(1997年)12月12日
06-0024 米沢市上杉記念館 門 平成9年(1997年)12月12日



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