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雲井龍雄を語る

kage

2021/10/28 (Thu)

雲井龍雄を語る

雲井竜雄
 10/23に笠井尚(かさいたかし)氏による「土俗的革命家雲井龍雄」と題する講演を拝聴した。米澤藩士「雲井龍雄」は戊辰戦争での活動家である。
 戊辰戦争では「奥羽越列藩同盟」のもと、米澤藩は会津藩と共に薩長軍と戦うも、米澤藩は早々と敵軍に恭順したことから、今でも米沢市民を快く思わない会津住民も居るという。
 講師の笹井氏は会津生まれの会津育ちと言うこともあり、米沢市民への感情はあまり良くないと思っていたが、講演内容は「雲井龍雄」を賞賛するものであった。

 小生は講演内容よりも、主催者が配布した文芸春秋10/10の記事「河野家三代の血脈」の一文に興味を持った。そこには、河野太郎代議士の祖父である一郎氏について次のように載っていた。・・・朝日新聞の入社試験では、英語がちっとも分からず、「有為な青年を選抜するのにこんな試験をするのはおかしい」と猛然と批判。幕末の志士・雲井龍雄の「天門の窄(せま)きは甕(かめ)より窄し」の詩を答案用紙いっぱいに書いて提出した。・・・とある。
 結果は不合格であったが、このように雲井龍雄の詩は政治家に限らず、多くの人々に口にされ、士気を鼓舞したという。

 NHKの大河ドラマでも明治維新を取り上げている今、米沢市民は雲井龍雄に関心を持って貰いたいと思っている。

【雲井龍雄のこと】
 時は幕末、260余年続いた江戸幕府も、農業中心の時代から商業中心の流れの変化や、列強諸外国の我が国への干渉など、これまでの幕藩体制では抗しきれない状況が日増しに強くなっていた。
 此の状況に、薩摩藩を主とした「公武合体派」は、日本の植民地化を防ぐべく開国し、朝廷との協調運動を進めようとする一方、長州藩を主とした「尊皇攘夷派」は、弱体化した幕府を打ち倒し、干渉してくる諸外国を排除しようと主張し、各派の衝突が京の随所で勃発していた。諸藩は、此の流れに如何に対処するべきかを模索していたが、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に、京都で王政復古の大号令が断行されると、米沢藩は情勢探索の命を雲井龍雄に下したのであった。
 雲井龍雄は秀才の誉れ高く、慶応元年(1865年)藩主上杉齊憲に従い江戸に出府すると、安井息軒の三計塾に入門し塾長にまで上り詰める。ここで雲井は全国諸士の知遇を得て此の塾を拠点に政治情報を収集したことが、後々彼の行動に大きな影響力を与えることとなる。
 情勢探索のため雲井が京に赴くと、強引な倒幕・倒会津を進める薩摩藩の方針に異を唱え、薩摩藩を政権から排除すべく討薩を広く呼びかけていくが、諸藩の態度は曖昧であった。
 勢いを増す薩摩藩は江戸で火付・強盗・殺戮の暴挙をもって幕府を挑発したことにより、ついに幕府は1868年(戊辰の年)に鳥羽伏見にて薩摩藩への攻撃を開始する。すると、薩摩は朝敵である長州及び倒幕派の公家と手を結び、未だ幼き天皇を蔑ろにして「錦の御旗」を掲げ官軍であることを表明した。官軍に抗えば賊軍になることを恐れた多くの藩が薩長軍(以下西軍)に寝返ったことから、勢いを増した西軍は東北へと進攻すると共に、東北諸藩に会津討伐の命を下したのである。
 東北諸藩は、西軍の会津討伐に義のないことから、会津藩を援護すべく奥羽越列藩同盟を結成し、雲井は「討薩の檄」なる書状をもって、東北に限らず諸藩に西軍との抗戦を訴えた。かくして戊辰戦争は東北を戦場として激戦が展開されることとなる。しかし、銃砲に勝る西軍に東北諸藩は恭順するに至り、東北での戊辰戦争は終焉を迎え、翌年函館戦争を最後に旧幕府勢力は排除され、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心とする急進的な近代化政策を推進する新政府が設立された。
 雲井は安井塾の旧友稲津渉により新政府の集議院(政府の諮問機関)に推挙されるも、薩摩を批判してきたこれまでの言動から集議院での身の置き所は無く、一ヶ月足らずで集議院を去ることとなる。
 新政府が設立されると、これまでの幕藩体制の士族は浪士の身となり、彼らの鬱積する状況は反政府運動の兆しとして全国的に広まっていた。
 集議院を去った雲井は、浪士らを天兵として採用するよう明治3年に新政府に嘆願書を提出したことにより、雲井に多くの賛同者が集まることとなった事態を危惧する新政府は、反政府運動を圧殺する手始めとして雲井を政府転覆陰謀の名の下に捉え、深く取り調べも行われず罪名の不確かな「仮刑律」が適用され、同年12月26日(1871年2月15日)に判決が下った2日後に小伝馬町牢獄で斬首刑に処され小塚原刑場に梟首された。
◇雲井龍雄の辞世
死不畏死 死して死を畏(おそ)れず
 生不偸生 生きて生を偸(ぬす=盗)まず
 男兒大節 男児の大節は
 光與日爭 光(かがやき)日と爭(あらそ)う
 道之苟直 道 之(これ)苟(いやし)くも直(なお)くんば
 不鼎烹憚 鼎烹(ていほう=釜茹刑)をも憚(はばか)らず
 渺然一身 渺然(びょうぜん=極小)たる一身なれど
 萬里長城 万里の長城たらん        享年27才。
 雲井龍雄は旧士族の待遇を嘆願し、薩摩藩専制による藩閥体制の新政府を批判し続けて明治3年に処刑されたが、明治7年頃、旧士族や農民たちは雲井同様に明治政府の体制である藩閥政治を批判し、国民の政治参加や国会開設、立憲政体などを要求する自由民権運動が盛り上がり、運動の志士たちは好んで雲井龍雄の漢詩を口にしたように、雲井の藩閥政治批判の思想は、後の自由民権運動に繋がって行くのであった。
※参考文献 友田昌宏著「東北の近代と自由民権」 高島真著「謀殺された志士 雲井龍雄」 

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