芋煮会のこと

2020/08/10 (Mon)
芋煮会のこと里芋が日本に入ってきたのは縄文時代と言われ、焼く・蒸す・炊く等の調理法で各地で食されていたが、野外で里芋鍋を多くの人で食べる「芋煮会」はいつ頃から行われるようになったのだろうか?
これには諸説有るが、米沢温故会の会誌「温故」の38号に会員の大和田瑩氏は次の文章を投稿している。
【芋煮の謂】
応永三十一年八月十五日大井田経宗は、尹良親王を奉じ、一族を率い諏訪から三河に向かう途中、野武士に襲われ戦死する。尹良親王は自刃し、羽川刑部他二十数名が親王に殉じたという。いつの頃の事か、当家では一族が先阻の地「魚沼」を去った日は、旧暦八月十五日とされており、その別れの宴が芋煮だったとの伝承があり。火急のこととて準備もままならず、別れを惜しむ人たちが里芋等を持ち寄っての屋外での宴と思われる。野外での大勢の会食は、現在の「芋煮会」に通じる。当家では毎年旧暦八月中旬に一族縁者を一堂に招き、無礼講で、昔時を語る芋煮の宴を年中行事として現在に至っている。
おそらく一族の苦難の歴史、祖父の地を忘れないための、或いは困難に負けず、一族の再起を期すための、代々伝えられてきた催しではないだろうか。
平成元年より開催された山形市の「日本一の芋煮会フェスティバル」で全国的に知られるようになり、馬見ヶ崎河川敷での「芋煮会」が本家本元と思われがちだが、小生は祖父より次のように聞いている。
「霞城公園には明治29年から終戦まで歩兵第三十二連隊の本営があり、米沢地区から招集された兵は、たまの休みに馬見ヶ崎河原で数人で芋煮を食したが、それを見た山形市の連中もそれに習って野外での芋煮を楽しんだ」
「米沢人はピーアールが下手」と言われるが、前述の伝承もあることから「日本一の芋煮会発祥の地」と銘打った催しを松川河川敷で行ったらと思っている。
山形の日本一は鍋の大きさであるが、米沢はグルーブ毎に竈に鍋をしつらえ、鍋の数で日本一を謳い、故人の「鎮魂の宴」と意味づけし、醤油・米沢牛肉仕立ての芋煮鍋を全国的にピーアールしたらどうだろうか。

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