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米沢藩最後の殿様

kage

2020/04/24 (Fri)

米沢藩最後の殿様

 4/22に山形テレビ開局50周年・琉球朝日放送開局25周年記念番組「最後の米沢藩主・上杉茂憲」が放映されたので多くの方が見られたと思う。

 上杉謙信公や鷹山公を知る市民も、茂憲(もちのり)公については余り知らないので「雪国の米沢藩主が南国の沖縄県令に任命されたのは何故か?」との疑問を持たれたのではなかろうか。その疑問に「沖縄の殿様」の著者高橋義夫氏は「新政府のいじめ」との考えを番組で述べている。

 米沢藩は戊辰戦争(1868)で奥羽越列藩同盟の中心藩として新政府と戦うも早い時期に恭順し、茂憲公は12代米沢藩主斉憲(なりのり)公の名代として、なおも戦い続ける会津藩・庄内藩への降伏斡旋に奔走した行為の評価から、新政府の米沢藩への「仕置き」は他の同盟藩と比べると寛大な処分であった。

 一方沖縄に対する琉球処分は、支配層であった士族の反乱も予想され、土地制度・租税制度・地方制度を今までのままにする「旧慣温存策」で沖縄を統治した方が都合が良いとの新政府の考えであった。

 そこで沖縄県令を任命するにあたり、新政府の考えに従順な候補として茂憲公が選ばれたのではなかろうか。
 しかし沖縄に県令として赴いた茂憲公は宮古・石垣両島まで及んだ視察で目撃した困窮にあえぐ庶民の姿から、政府に改革意見を再三上申するが黙殺され続けられたことに、高橋義夫氏は「明治時代、沖縄の民を救うため 政府に盾ついた男がいた」と著書の帯にキャッチフレーズを載せた。
 
 一方茂憲公は、次代の若者を県費で東京に派遣して学ばせる「教育と人材育成」に力を注ぎ、産業面ではサトウキビの作付けを拡大し、製糖技術の改良を図るなどに尽力したが、「旧慣温存策」を政策に掲げる政府にとっては意に反する行為であった。

 それらの理由からか、茂憲公は2年という志半ばの就任期間で解任され、それまでの改革は次々と廃止されたが、情熱を傾けた人材教育は後年になって実を結び、東京に派遣した人物は、沖縄最初の新聞「琉球新報」創設、「沖縄銀行」設立などの他、那覇市長・首里市長・沖縄県最初の衆議院選挙で議員になった者など、政財界で活躍するのであった。

 上杉家廟所には上杉謙信・景勝・鷹山など11代までの藩主の霊廟があり、これに並んで最後の藩主、茂憲公の記念碑があり、記念碑には今もはるばる米沢に足を運びお参りする沖縄県民がいるという。


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