元帥と呼ばれた男②

2019/09/17 (Tue)
元帥と呼ばれた男②
日本の旧陸軍軍人で「世界最終戦論」「戦争不拡大」「反東条英機」など軍事思想家として知られる人物に石原莞爾がいた。 彼を師と仰ぎ崇拝してやまない元帥(木村武雄)は、自分の息子に「莞爾」と命名する程の心酔ぶりであった。
その石原莞爾が亡くなったとき、元帥は遺骨を分骨して郷里米沢に持参し、昭和四十六年八月十五日に埋葬した記念として、御成山公園から少し行った所に碑を建立した。
それが左の写真だが、浅学の小生には碑文に何が書かれているか分からなかったが、9/13の木村莞爾氏の講演の際、資料として碑文の読み下しが配布されたので下に載せる。 興味のある方は一読願いたい。
【石原莞爾分骨記念碑 建立 木村武雄】
碑 文
石原莞爾先生は明治二十六年一月十八日、山形県鶴岡市日和町で生誕されて、昭和二十四年八月十五日山形県飽海郡遊佐町に逝去された。在世六十年七ヵ月である。
先生の歴史は昭和六年九月十八日の満州事変と満州建国に要約し得るが、その中に包蔵された先生の思想はこの歴史よりも遥かに雄大で、岡倉天心のアジアは一なりの思想、孫文の大アジア主義と軌を一にする東亜連盟から世界最終戦争論にまで発展する。その総てが世界絶対平和を追求する石原先生の革命思想の発露である。
岡倉天心は明治二十六年七月、中国に渡って欧州列強の半植民地政策による貧困と苦痛をつぶさに観察して足を印度に延ばし、詩聖タゴールと交ってヨーロッパの繁栄はアジアの恥辱なりと喝破してアジア復興をアジアの団結に求めて印度を追放されたのも、孫文が日本に亡命してアジア主義を提唱して中国の独立を日本の援助に托したのも、石原先生が満州を建国して東亜連盟に踏み出したのも、その真情は総じてアジアの解放にある。
先生はアジアを直視して、アジアの独立と繁栄が、隣国を敵視反目する中国と日本の調整に始まるとした。そして先の両国の中間にあたる満州に日華民族の協和する王道楽土を建国し、これを橋梁として多年抗争する両国を東亜連盟で結んで欧米勢力と対決して人類歴史の前史を最終戦争の勝利で締めくくり、かくて世界絶対平和の後史をアジア人の道徳を中心として建設せんとした。だが、その構想は爾後の戦争で歪曲蹂躙され敗戦と共に埋没したが、先生の思想と行動は昭和前史の□□と共に永く後世を照鑑する事と確信する。世に石原先生ほどアジア人を愛した人は少ない。
そしてその解放と繁栄と世界絶対平和を、マルクスの唯物史観を超えた先生の戦争史観に□□を托されたが、史観の予言した如く、今や人類の前史は早晩終りを告げんとし、人類が世界絶対平和の後史に突入する日も間近かである。
先生の遺骨を分骨して郷里米沢に持参して二十二年になる。昭和四十六年八月十五日埋葬した記念としてこの碑を建立する。
木村武雄
文責 毎日新聞・佐藤

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