玉庭の雛巡り

2019/03/27 (Wed)
玉庭の雛巡り各地で雛人形を展示する催しが開かれているが、玉庭は今年で21回を数える。町民パワーで21年も続けてこられた事は敬服に値する。
庄内や河北でも雛人形の展示会が催されるが、玉庭に今も存在する背景は前者とは少々趣を異にする。
各地で展示され、評価の高いのは享保年間(1716年~1736年)に京都で製作された「享保雛」だが、それは全国的に人気を博し、庄内・河北へは北前船で運ばれ、紅花や米などの交易で潤った商家などが大金をはたいて求めたと伝えられる。
反面、玉庭の場合は、米沢藩下級武士の家に伝わったもので、薄給の彼らがどうして高額な「享保雛」を求めることが出来たのだろうか?
言い伝えによると、当時の米沢藩は江戸屋敷の警備のため、玉庭からは数十人で100日間の奉公を課していた。
務めが開けると、節約して貯めた禄で1~2体の雛人形を買い求め、担いで当地まで運んだという。当然ひな壇を埋める程の人形の数は数年、あるいは何代かに渡って集められた物だろうし、それに新品を揃えるには困難で、中古の品ではなかろうか。
いずれにしろ、苦労して雛人形を運んだ、子を思う親の愛がヒシヒシと感じられる玉庭の雛祭りである。
写真のおひな様は立ち膝をしているが、これは雛人形が朝鮮より伝わった名残で、大変貴重な一体である。大概は膝の部分に綿を入れて膨らませ、足の状態が分からない仕様となっている。
飾り方は、古来の日本文化では、男性は向かって右、女性は向かって左とされてきた事から、男雛は右に女雛は左だが、文明開化以後の西洋化(西洋は向かって男左・女右)が影響してか、近代のひな壇では左右が逆になっている。







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