色部長門碑前祭

2018/08/09 (Thu)
色部長門碑前祭今年は「戊辰戦争150年」と称しているのが東北で、西の方では「明治維新150年」と言っている。歴史の捉え方に敗者と勝者では雲泥の差があり、小生は米沢人として150年の節目を敗者の立場からしか眺める事が出来ず、西の人のように「明治維新150年」として祝う気にはなれない。
今日日(きょうび)米沢人として「色部長門」の名を知る人は少なくなったが「戊辰戦争」と言えば「色部長門」を語らずにはいられない。
西軍が東北討伐に軍を進めてくると、武器に劣る東北諸藩(会津藩を含む)は勝ち目の無い事を悟り、西軍に「恭順」の意を表した。しかし会津藩・荘内藩の二藩は「恭順」が認められず、西軍は東北諸藩に会津藩・荘内藩の討伐を命じた。
米沢藩・仙台藩を中心に「西軍の命に義は在らず」「会津藩・荘内藩を援護すべし」として「奥羽越列藩同盟」が結ばれ、米沢藩は越後にて西軍と交戦することとなる。この時、越後に総督として出陣した「色部長門」は、米沢武士の面目を施し奮戦したが、新潟関屋の地で西軍の銃弾に果てたのであった。
この間僅か三ヶ月であったが、関屋土民は「色部長門記念碑」を造立し、碑文には「保境撫民」(国を護り、民を大事にする)と彼を讃えている。
戊辰戦争を制した明治政府から米沢藩に責任者を差し出すよう命じられ、このとき藩士宮島誠一郎は、既に死亡している「色部長門」を反逆首謀者として届け出た。これが認められ、米沢藩は色部家の「家名断絶」という処罰で済み、他藩のように切腹などの犠牲者を出さずに済んだ。
宮島誠一郎は色部一人に罪を負わせたことに自責の念を持ち、色部家復興を試み、後にその願いは叶えられ、米沢でも「色部長門追念碑」が有志によって造立されたが、NHK米沢ラジオ中継放送所の裏手の為、米沢人でも知る人は少なく、早々にNHKの移転を望んでいるが、このことに中川市政の関心は薄い。
8/26に「色部長門碑前祭」が行われるので多くの市民が参加される事を望んでいる。


この記事へのコメント

観光等の私の意見
観光資源を活かしきれてない米沢市行政と言う気がしてます。財政難だからこそ、観光に力を入れて米沢市を維持発展させて欲しい。
Posted at 16:38:27 2018/08/10 by タケオ
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