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今年も参上「前田慶次」

kage

2018/05/02 (Wed)

今年も参上「前田慶次」

慶次
 5/3は、祭りのクライマックス上杉行列が慣行されるが、前田慶次のフィギュア山車で行列に参加して今年で5年目を迎える。折しも今年は直江兼続400回忌の節目でもあり、米沢駅前でのパフォーマンスを考えているが、どうも天気は雨模様である。これまでは好天に恵まれ雨の心配はなかったが、今年はどうであろうか。
 関ヶ原合戦の前哨戦として「長谷堂の戦い」が語り継がれているが、「東北の関ヶ原」として前田慶次と直江兼続とのエビソードを紹介したい。

◆「東北の関ヶ原」
 かぶき者で知られる前田慶次は上杉藩の智将・直江兼続を慕って上杉景勝に仕官し、出羽国で行なわれた長谷堂城の戦に参戦する。この戦は豊臣方に与する上杉軍と、徳川方に与する最上義光・伊達政宗軍との戦いで、「東北の関ヶ原」といわれる。
 関ヶ原合戦の数年前より会津の上杉景勝は石田三成と気脈を通じ、徳川家康討伐を計画して築城や兵の増強に着手していた。これを嗅ぎつけた徳川家康は、「上杉景勝に謀反(むほん)の嫌疑あり」と上洛しての釈明を求めたが「直江状」をもってこれを拒否した事から、慶長五年(千六百年)、徳川家康と諸大名連合軍は上杉討伐へ向けて軍を進めた。
 が、小山(現在の栃木県小山市)で石田三成挙兵の報を聞き、家康は「おのおの方の妻子は、大坂に人質にとられておるゆえ、さぞ心配でござろう。されば、これより速やかにこの陣を去り、大坂に舞い戻って治部(三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方しようとも、わしはいささかもおのおのの行動を恨みに思わぬ。我らが領内においては、行軍の心配もいらぬ。心置きなく上坂いたされよ」と諸大名に諮る軍議(小山評定)を開き、その結果軍を西に返した。
 逸話では家康が小山を去ったのを知った直江が上杉景勝に追撃を進言すると、景勝は「敵を後ろから攻撃するのは謙信の義に反する」と制したという。
 ちょうどこの時、上杉景勝は最上義光が酒田城を攻めようとしていることを聞き、兼続に最上領への侵攻を命じ、直江兼続を総大将とした上杉軍は、山形城からは南西約八キロのあたりに位置する長谷堂城を包囲した。
 長谷堂城が落ちれば、上杉軍は最上義光の山形城攻城戦に取り掛かる戦略であったが、長谷堂城を守る最上氏の重臣・志村光安は寡兵ながらも夜襲を仕掛けるなど巧みな戦術にて、兼続のいる本陣近くまで攻め寄った。
 兼続は春日元忠に命じ、さらに長谷堂城を激しく攻め立てたが、城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができないところへ最上軍は一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち付けた。
 その後、上杉勢は総攻撃を敢行するも、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦に及び、上杉軍は武将・上泉泰綱を失うなどの大きな痛手を受けた。
 長谷堂戦のさなか、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされ、兼続は盟友・義友の一人でもある石田三成を失い、戦意喪失して自害しようとした。
 この時、前田慶次は「一軍の将ともあろう者が、そのような気弱でどうする。わしらにお任せあれ」と兼続を諫め、上杉軍退却の殿(しんがり)役を申し出た。
 上杉軍は撤退を開始するも、最上伊達連合軍との追撃戦は、最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり、両軍多くの死傷者を出したが、この時、前田慶次は、難しい撤退戦を水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持つ豪士五名と兵三百にて、追撃する最上勢の中を縦横無尽に分け入って戦い、退いてはまた戦うと言う、一番危険な殿(しんがり)を、見事な戦術にて務め、更に武名を高めた。
 この戦法は、のちに日本陸軍が手本として研究し、士官学校で教えたくらいである。
 慶次の大活躍により、兼続は敵陣をふりきって米沢に戻る事が出来た事は、言わば前田慶次は直江兼続の「命の恩人」と言えるのではないか。
 前田慶次の活躍で直江兼続が撤退戦を完了させると、伊達政宗は「最上の兵が弱すぎて直江兼続を逃がした」といったそうですが、この時ばかりは最上義光の兵が弱いのではなく、前田慶次の武勇が凄すぎたのかもしれません。

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