戊辰戦争と明治維新⑨

2018/01/23 (Tue)
戊辰戦争と明治維新⑨【新政府軍の新潟侵攻】
元々新潟は幕府直轄領であったが、大政奉還後に幕府役人が逃亡したため、江戸城開城に反対した浪士達が集まるようになり、すると、治安は乱れ、新潟は大混乱の状態にあった為、新潟住民が米沢藩に統治を願い出た。
米沢藩十二代藩主、上杉斉憲(なりのり)は、重臣である「色部長門」に軍命を下し、米沢藩総督として越後に向かわせ、色部は新潟の治安維持と新潟港の管理にあたり、陸と海から侵攻する政府軍と一戦を交えるようになる。
雪の降る前に会津藩を落とそうとする政府軍と、奥羽越列藩同盟による、米沢藩を主力とする同盟軍の戦いが始まり、一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、新発田藩の寝返りや、銃備に勝る新政府軍の猛攻を受けて敗走し、「色部長門」は関屋(現在は新潟市中央区関屋)にて敵の銃弾を受け、動けなくなり自害する。
その後の米沢藩は、最新兵器で武装した新政府軍との戦いは、犠牲者を増やすのみと、やむなく新政府軍に降伏した。そして、奥羽越列藩同盟の盟主である米沢藩が、早々と恭順の意を表し、それまで味方であった会津と庄内に新政府軍応援の兵を送ったため、「裏切り者」と称された。
米沢藩降伏後、会津・庄内藩は戦いを続けるも、1866年11月庄内藩の恭順により東北での戊辰戦争は終わりを告げる。(翌年の函館戦争「五稜郭の戦い」までを戊辰戦争と言う場合も有る)
かくして戊辰戦争から文明開化の明治の世となる訳だが、薩長藩による明治維新が正義であったか?には、「明治維新の過ち」の著者原田伊織氏の時代考察に共感する小生である。
米沢藩十二代藩主、上杉斉憲(なりのり)、色部長門、雲井龍雄に付いては、さらりと触れたが、別の機会に再度述べたい。
【完】

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