戊辰戦争と明治維新⑦

2018/01/21 (Sun)
戊辰戦争と明治維新⑦【戊辰戦争と米沢藩】
米沢藩は、1864年に世継ぎの手続き不手際から、三十万石から十五万石に減封された事もあり、幕府への忠誠心は、会津藩のそれとはかなりの温度差があった。
1866年頃の世は、薩長同盟や第十四代徳川家茂(いえもち)逝去により、世は混乱の兆しを見せ、徳川慶喜(よしのぶ)が第十五代将軍に就いたものの幕府の権力は衰退し、薩摩藩の横暴が目立つようになってきた。
そこで「雲井龍雄」を京都・江戸の情報収集に当たらせ、藩の今後の対応を模索していた。
この頃、幕府は天領の地であった屋代郷三万七千石を米沢藩に与えているが、これは米沢藩の歓心を買うためと思われる。
雲井龍雄の見立ては、「薩摩藩の態度はいずれの場合も事甚だしく悪辣で、まさに天下を毒するもの、今にして毒牙を封じなければ、悔いても及ぶまい」と、薩摩藩が悪の元凶と捉え、討薩論を展開するに至った。
雲井龍雄が心配したように、薩摩藩は「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)を勝利し、倒幕のための軍を江戸に進めると、戦意を失った徳川慶喜はあっさりと恭順の意を示し、薩長藩による新政府が形成された。
新政府に対し、米沢藩・会津藩を始め東北諸藩は恭順の意を示したが、会津藩だけは認められなかった。そこで、東北諸藩は会津藩の赦免を願い出るも、なんと新政府は東北諸藩に会津攻略を命じたのである。
新政府の会津討伐令に、「なぜ会津が朝敵なのか?先の孝明天皇から最も厚い信頼を受けていたのは会津藩ではないか!会津が賊軍などと薩長軍が作った偽りにすぎない!会津は朝敵にあらず!我らが会津を討つ道理はない!」と、米沢、仙台藩、が強く反発した。
これに他の東北諸藩も賛同、「ならば奥羽が一丸となって政府軍と戦おう!」と、団結の意を示し、盟友会津救援のため奥羽越列藩同盟を結ぶと、加茂(新潟県)で新政府軍と戦うべく軍議が開かれた。
【続く】

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