戊辰戦争と明治維新⑥

2018/01/19 (Fri)
戊辰戦争と明治維新⑥【公家と武士】
我が国は古(いにしえ)より、天皇制国家として天皇を中心とする朝廷を形成し、公家は朝廷に仕えていた。一方、武力で天皇に奉仕する武家は、幕府として天皇の配下にあった。
しかし、江戸時代ともなると幕府の権力が増大し、井伊直弼のように天皇の許可を得ず日米修好通商条約を結ぶなど、天皇の威光は弱まってきた。そこで大きく台頭してくるのが長州藩を中心とする「尊皇攘夷論」である。
「尊皇攘夷論」とは、外国勢を打ち払い、天皇を尊ぶと言うのであるから、朝廷にとって悪い話では無いが、長州藩のやり方が余りにも過激な為に、朝廷も痛し痒しであった。
幕府(徳川慶喜)は、蛤御門の変で朝敵と見なされた長州藩を成敗すべく(第二次長州征伐)天皇の指示を待ったが、ノラリクラリと態度を保留している間に、水面下では、薩摩藩と長州藩は同盟を結び、公家の岩倉具視と通じて、幕府が兵を挙げるのを手ぐすね引いて待っていた。すると、薩摩藩による江戸での火付け強盗などの挑発から、庄内藩が江戸薩摩邸に火を放ち、鳥羽伏見の戦い(1868年)が勃発した。
この時、岩倉具視は天皇に許可を得る事無く、こっそりと制作した「錦の御旗」を薩長軍に与えたことから、以後、「錦の御旗」を掲げる薩長軍が官軍で、それに弓引く諸藩は朝敵となり、鳥羽伏見の戦いは薩長軍の勝利となった。
公家の岩倉具視の思惑は、鎌倉時代に源氏と平家をうまく操り、朝廷が政権を維持したように、薩長藩に「錦の御旗」を与える恩を売り、倒幕後は15才の明治天皇を蔑(ないがし)ろにして、自分が天皇職に就こうとしたのではなかろうか。
薩摩藩の大久保利通は、新政府への公家の関与を嫌って、京の天皇を江戸に移したことから、明治政府での公家の存在は薄いものとなった。
攘夷を掲げ手にした新政府であるから、外国勢を打ち払って鎖国を続けるのが筋であろうが、政権の座に就いた明治政府は外国との交易を盛んにし、急激に西洋文化を吸収して富国強兵へと突き進むのである。これでは江戸幕府のパクりではないか。
これら一連の薩長藩の行いを「勝てば官軍」と揶揄(やゆ)されるようになった。
政権を手にした薩長藩は、海軍の薩摩、陸軍の長州として藩閥を形成し、明治政府を軍国主義国家へ進めたのである。
以上を観ても、明治維新とは薩長藩による「政権奪取」が目的で、尊王攘夷は倒幕の手段であった事が理解できよう。
【続く】

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