戊辰戦争と明治維新③

2018/01/16 (Tue)
戊辰戦争と明治維新③【新政府は、何故、会津藩に過酷な制裁を加えたか?】
会津藩が京都守護職任命(1862年)された頃の日本は、外国を排除し、天皇主体の政治を行っていこうとする「尊王攘夷派」と、幕府と公家が協力して政治を行っていくべきだとする「公武合体派」に分かれていた。
会津藩は公武合体派として、尊王攘夷派の中でも武力行為でことを進めようとする強硬派(主に長州藩)に対し、京都見廻組及び新撰組を用いて戦い、過激な長州藩士を京都より追い出す事に成功した「八月十八日の政変」(1863年)があった。
その後、京都から追い出された攘夷派は池田屋にて「京都に火を放ち、天皇をさらっていこう」とする会合を行うが、新撰組に嗅ぎつかれ、攘夷派9人が討ち取られた。世に言う池田屋事件(1864年)である。
この池田屋事件をきっかけに攘夷派の怒りが爆発し、長州藩は京都に進軍。御所の蛤御門付近で、京都守護職の会津藩と戦闘になり、御所内に侵入するところまで行ったが、薩摩藩の活躍によって長州藩は撤退した。
この際、長州藩は御所に向けて発砲したことで朝敵とみなされ、賊軍として責任者は切腹させられた。(第一次長州征伐)
これが世に言う蛤御門の変(1864年)であるが、この時、薩摩藩は会津藩と同じく「公武合体派」として長州藩と戦った事と、長州藩が朝敵であった事をご記憶願いたい。
かように、長州藩と真っ向交戦を行ったのは会津藩であり、多くの同士を失った長州藩にとっては「にっくき会津藩」とする感情が、戊辰戦争とその後の会津藩への対応ではなかったか?
又、その後も続く庄内藩や五稜郭の戦いに、新政府軍の強さを知らしめ、逆らえばこのように扱われるという見せしめ効果を狙ったかもしれない。
【続く】

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