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戊辰戦争と明治維新②

kage

2018/01/15 (Mon)

戊辰戦争と明治維新②

 大阪城に居た徳川慶喜(よしのぶ)は、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢を知り、江戸城に逃げ帰ったことから士気は下がり幕府軍は惨敗した。
 新政府軍はその後、江戸を侵攻すべく軍を進めたが、慶喜は恭順の態度をとって謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した事から、慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)に旧幕府陸軍総裁の勝海舟と、西郷隆盛が会談し、勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。この交渉により戦禍を被る事無く江戸城は新政府軍に明け渡された。これが世に言う「江戸無血開城」である。

 しかしその後、「彰義隊の戦い」のように抗戦を叫ぶ旧幕臣たちとの争いが随所で勃発したが、武力に勝る東征軍には敵わず、殆どの戦いは鎮圧された。

 一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保(かたもり)は会津へ戻り、新政府に哀訴嘆願書を提出して天皇への恭順の姿勢を示したが、新政府は認めず、奥羽諸藩に会津藩討伐令が出された。
 これに、奥羽諸藩は会津藩の赦免を新政府に斡旋したが受け入れられず、ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟(31藩)を結成するにいたり政府軍と対決することとなる。

 以上は、これまで広く世に知られた戊辰戦争の経緯だが、ここで、会津藩主松平容保(かたもり)が朝敵とみなされた事と、敗戦を喫して長く辛酸を舐める過酷な制裁が科せられた事への疑問が生ずる。

【新政府は、何故、会津藩に過酷な制裁を加えたか?】
 桜田門外の変(1860年)の後から、京都には強行的な攘夷派(主に長州藩)が入ってきて暴威を奮い、治安は乱れに乱れていた。そこで京都の治安を守るために1862年に「京都守護職」(いわば警察)が設置され、会津藩が引き受けることになる。
 この職は莫大な金がかかるので引き受けたくは無かったが、会津藩藩祖・保科正之が定めた家訓「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず(幕府には忠勤を尽くしなさい。他の藩がそうだったからといって、会津もそれに倣うことはしてはならない)」という文に従って、京都守護職を引き受けることになる。

 この「京都守護職」が後の会津藩に多大な影響を及ぼす事となる。
【続く】


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