東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話①]

2017/08/21 (Mon)
東京の友人の友人氏へ[歴史四方山話①]投稿氏は観光行政にも関心がお有りのようなので触れてみたい。
観光客が主の「織陣」という店の経営に携わってきたことから、観光行政には強い関心があり、観光と文化は金になる事を肌で感じる小生は、本市の観光行政に対して不甲斐なさを感じ、何年も前から提言しているが聞く耳持たずの観光課長であった。
しかし、今年度になって観光課長が替わったことから会見を申し込んだところ、過日、快く課長以下3名の職員と会見する事が出来、約三時間にも及ぶ話し合いから、新課長の今後の活躍に期待が膨らんだ。
観光事業の取り組みと言えば「風光明媚」や「由緒(歴史)有る建造物」等が思い浮かぶが、米沢市はそのどちらも多くの観光客を呼ぶ程のパワーは無い。特に「由緒(歴史)有る建造物」は大正時代の二度の大火で、その殆どを失っている。
しかし、視覚に訴える物が無くても、歴史は生き続け、上杉や伊達の縁を訪ねる観光客の存在は貴重である。
近年の観光に「歴女」なる言葉が取り上げられるように、眺める観光から、もっと深く歴史を訪ねる観光へ移行しつつある。そこで小生は「歴史を元に物語を膨らました、まちなか回遊観光」を提唱したい。
「またなか回遊観光」のアイデアは多数有るが、今回は歴史四方山話として源義経を取り上げたい。
【義経の奥州平泉への経路】
兄の源頼朝が義経討伐を決めたことにより、義経は追討を避けながら藤原秀衡を頼って奥州平泉へ赴くわけであるが、その経路については諸説あり、米沢には以下の言い伝えがある。
◆ 文治二年初冬、鎌倉幕府の圧力で京の都から逃れて来た源義経主従一行が、船坂峠を越えて来た時、突然地元の豪族らが行く手を阻み、「我が領地に断りも無く入る者は何者ぞ、通過するならそれなりの通行料を支払え」との不当な金品を要求するのであった。
これに弁慶は「何を何を、我らは検非違使源義経殿一行でござる、無礼であるぞ」と口上を切ったが、豪族共らは、世の中の事には全く疎い輩であるゆえ、義経の事など知る由も無く、「金を出さぬなら、こやつら痛い目に合わせてくれん」と先具えの家臣・鈴木三郎重家にいきなり切りつけてきたのである。
その時不覚にも鈴木三郎重家は片方の目に傷を負うこととなったが、これを見た弁慶は大いに怒り、豪族共らに激しく襲いかかった。その迫力に怖気づいた豪族らは「これでは敵わん」と仲間を呼び集めるために親分の屋敷へと退散した。
弁慶は途中まで追いかけたが、子分等が逃げ込んだ親分の屋敷を確認したので、傍らの石に足を踏ん張り、強弓をキリリと引き絞り、親分の屋敷めがけて、これ又大きな鏑矢を放ったのであった。
鏑矢は大きな唸りと共にブスリと親分屋敷に突き刺さった。
刺さった矢の大きさに驚いた豪族どもは「この様な武者が居るのでは敵わない」と戦気を失い「どうぞ、どうぞ」と義経一行の通行を認めたのであった。
この矢を放ったとき、弁慶が踏ん張った石に足がのめり込み、そのまま残った足跡を『弁慶の踏ん張り石』として、又、一帯の林を「弁慶林」として今に伝承されているのであります。[下写真 弁慶林と弁慶の踏ん張り石]
【続く】



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