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酒井彰氏の野望とその背景 【№01】

kage

2011/09/05 (Mon)

 酒井彰氏の名前を知らない米沢市民は極希であろう。
言わずもがな、㈱北陽グループ・㈱ニューメディア・米沢商工会議所・介護施設の総帥として豪腕ぶりを発揮し、飛ぶ鳥を落とすが如くの活躍ぶりにバンクマントップにして「酒井氏が変わらなければ米沢市は変わらない」と言わしめた程の勢は最近「酒井天皇」と称される程である。

  しかしこの活躍の背景には父「巌氏」の業績が極めて大きく関与している事は紛れもない事実であり「酒井巌」氏を語らずして現在の酒井彰氏は到底理解することは出来ない事である。
又、酒井彰氏に大きな影響を与えたもう一人の人物に金子建設「金子剛三氏」を上げずにはおかれまい。
金子氏も米沢を大きく動かした人物であり、現在でも政治経済界に影のドンとして君臨している事から、先ずは二人の経歴と時代背景から触れてみたい。

◆酒井 巌 氏
  館山一六軒町で生まれ、昭和14年米沢高等工業(現在の山大工学部)・昭和21年東北帝国大学工学部化学工学科卒と有る。
東北大は就職した三菱商事㈱を中途退社しての入学であるから大変な向学心の持ち主であった訳である。
卒業後は持ち続けていた食品工場(サービスを含む)経営の夢を実現すべく「酒井生活研究所」を創設し、ここから企業人としての活躍が始まるのであるが、妻である来次家の次女「登美子氏の閨閥」がその後の活躍を後押しするのである。

  この研究所の敷地は妻の叔父「佐藤徳助氏」(巌氏の妻登美子氏の母の弟で当時隆盛な米織業界をリードするトップ企業佐徳織物代表者)より借り受け、一年後に現㈱北陽の前身である「東北食品化学工業㈱」を叔父の援助で立ち上げると間もなくチャンスが到来した。
国は農林省直轄のアミノ酸製造工場を全国に求めたのである。
早速巌氏は応募を決意するのであるがここでも叔父徳助氏の政治力で県代議士を紹介してもらい、代議士同伴で農林省の食品局長と面接した結果、資格を取りつける事に成功したのである。しかし工場も設備も無い状態であった。 が、又々叔父徳助氏の援助により現在の松が岬一丁目「㈱ナウエル」の地に工場が完成したのである。

  アミノ酸醤油製造が軌道に乗ると氏の旺盛なる事業意欲に火が付いた。
天然醤油・ラムネ・ジュース・玉うどん・アイスクリーム・冷菓等の製造そして牛乳処理販売・給食事業と怒濤の如く多角経営に邁進したのである。

  そして昭和40年頃より結婚ブーム(団塊の世代)となってきたのを期に給食事業を手がけている事から披露宴会場の運営へと事業を拡大したのだった。
これが㈱ナウエルの前身であるが、折しも九州地方より始まった冠婚葬祭互助会システムが北上しつつあり、期を見るに敏なる巌氏は早速その許可を取る事により互助会事業㈱ナウエルを立ち上げたのであった。

  その後の快進撃については米沢市民の良く知る所であるがここまで事業を拡大する裏にはあまり人に知られたくない事情もあったようである。

・㈱北陽と㈱ヤクルトの関係
  昭和39年頃、福島よりヤクルト事業の話が持ち込まれたが牛乳宅配をやっている事から㈱北陽(社長は佐藤徳助氏弟宏助氏)が手がけるようになったのは自然の成り行きであった。
この頃の㈱北陽は多角経営に邁進するもの内容は決して芳しいものでは無かった。しかしながらヤクルト事業が軌道に乗るとその業績はメキメキと向上し、今後の更なる発展を期し単独事業としての㈱ヤクルトを設立し初代社長としては㈱北陽の社長佐藤宏助氏が就任した。
この様に業績は拡大するも資本金の殆どは佐藤家が占めていた。

・ニューグランド北陽建設と㈱北陽社長就任
 佐藤家は今後も安定成長が見込めるヤクルト事業に専念し北陽グループの経営を酒井巌氏に委ねようと考えた。
時を同じくしてニューグランド北陽建設の計画が進展し㈱北陽の増資が検討されていた。
㈱北陽の代表者となるには相当額の資金が必要であったが、さすがの酒井氏に取っても右左に調達出来る金額ではなかった。
そこで取られたのがウルトラテクニックである。

  当時ニューグランド北陽建設は黒金建設に決まっていたのだが、このころ親交を深めている金子建設に㈱北陽の代表者となるに必要な資金をバックアップする事を条件に建設発注する話を持ち込み、金子氏が承諾した事から着工は黒金建設から金子建設へと鞍替えされたのである。
  このキックバック資金を元に代表者となった酒井氏はその後名実共に北陽グループの総帥として力量を発揮し業績は拡大されていくのであった。

・近藤鉄雄代議士とのこと
  鉄雄氏の母親は佐徳織物の寮に住み彼はここで育った。後に国会議員を目指した時、米沢市には木村武雄・黒金泰美の大物代議士が現存している事からその地を山形市に求め見事志を達成したのだった。
 しかしながら育った場所が妻の叔父徳助氏所有とあれば巌氏と鉄雄氏の関係は想像に難くなく、互助会の許可も政治家として当時力をつけた近藤氏の後ろ盾が有ったのかも知れない。

・商工会議所会頭選挙
  旺盛なる事業意欲もさることながら自己顕示欲も相当なものだったようだ。
各種団体の長を兼任し米沢の名士としての地位を得ていた氏であったが自ら欲して叶えられなかったのが米沢商工会議所会頭のポストである。
  佐々木忠夫会頭時代の副会頭である巌氏は当然にして会頭席を望んだのであるが周りの人望を得る事が出来なかった。
特に当時のA専務は巌氏の過去の行動から見て公益より私益を優先するであろう事を深く懸念し丸定社長の佐藤良平氏を擁立しようと尽力したという。
結果、強く望んだ会頭席を手に入れる事が出来なかった訳であるが、この経緯は未だ若き彰氏の思考回路に強く組み込まれたのではなかろうか。

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