コメント氏へ

2017/05/18 (Thu)
コメント氏へ既載、舘山城のこと② (05/15)に、以下のコメントが有ったので答えたい。
【コメント】
事実誤認があるようなので、指摘しておきます。
1.館山発電所は「跡」ではなく、現在も稼働中です。東北電力の水力発電所一覧にも掲載されています。
2.「一の坂から御成山下」は「舘山城跡」としてではなく「一ノ坂遺跡」としての指定です。
3.「舘山城跡」として指定された範囲は「小樽川と大樽川の合流地点付近の標高310~330mの丘陵先端に立地する山城と山麓部の館跡からなる城跡」です。ただし、東北電力館山発電所の敷地は除外されています。
【小生の考え】
1.について、・・小生が「館山発電所跡」と表記した場所は、館山発電所上部の平地で、公図では「大字舘山字城山」と記されている。
市の調査初期では、上記場所にある瓦礫を『伊達政宗が築城し、岩出山へ移封になったことから城の石垣を破城した「裏込め石」』と発表していた。
それに対して小生等は「東北電力は発電量を上げるべく、この地に貯水池(ダム)を作ろうとしたが、取水地住民の反対から希望する高さからの導水が叶わず、貯水池建設を中断した。瓦礫はその時の資材であり、伊達政宗が築城しようとしたのは一の坂の看板通り」と主張し、市と論判した。
公図にはその計画水路跡が残っているし、この地区には現在も東北電力名義の土地があるので、小生はこの場所を「館山発電所跡」と表記したのである。
2.について、・・下図の米沢市文化課が作成したパンフを参照すれば、「舘山城の領域」として「一の坂」から色分けされているし、その説明には「舘山城の城域は、大樽川・鬼面川を越えてさらに東側へ拡大するとみられ、並松土手(一の坂)と呼ばれる東側に堀を伴う土塁を東端とする広大な城域を形成した・・・」と添えられている。
文化課A職員に舘山城の領域を質したとき、『一の坂から御成山界隈を「舘山平城」、舘山発電所付近(下図赤色部分)を「舘山山城」』との説明を受けている。
又、「一ノ坂遺跡」とは、矢来1丁目にある約6000年前の縄文時代前期の集落遺跡であり、「舘山城」とは別物である。

◆以上から事実誤認とは思っていないが、如何であろうか?

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この記事へのコメント

コメント氏様 「手塚孝支持者」との軽率な判断をお詫びいたします。
文化財登録された便宜的に自称したと吐露した『館山城跡』名称地は、上杉家の歴史的史料では「正保二年(1645)幕府命により提出の『羽州上杉藩城下絵図』」(国立公文書館蔵デジタル閲覧可)に明確に記述されている『古城』跡の場所である。
よって、上杉藩の正式な記録であり、幕藩体制を継承した米沢市においても学術的にも歴史的にも正式な史料と認定される『上杉藩城下絵図』に記されている『古城』名が正式な名称として米沢市教育委員会では用いなければならないと考えられる。以上のような考え方を持たなければ米沢市が継承した資料を否定して、捏造(自称→)考古学専門家手塚孝が物的証拠を捏造し文化財保護法を悪用して遺跡登録させた(遺跡登録を目指すとした邪まに呼称した→)「館山城跡」を支持したことになる。米沢市民として嘘・捏造など、許すこと絶対にできない。
発電所山上の遺跡としての正式な名称は「正保二年幕府提出上杉氏城下絵図『古城』跡」。もしくは、伊達時代からの住所の大字口田沢字長峰山『古城』跡遺跡と名称すべきであろう。館山城跡などの捏造の名称ではないことは証明されている。舘山北舘(元県南漁業組合池跡)・東館(政宗生誕地木碑)・南館(ついでに捏造した地)等の名称も遺跡指定のために捏造したと吐露している場所であり伊達氏遺跡を証明する物的証拠を捏造して遺跡捏造を行った場所である。
市教委と手塚孝等は当責等と鬼の会様の告発に、一切回答も反論もしない戦術をとっており、無視状態である。心ある郷土史に興味の有る方々や歴史を教える教師の方々の市教委に対する問い合わせを期待します。このままでは、米沢市民と皆さん方も嘘つき歴史者の住む米沢観光地と誤解されます。
Posted at 09:34:10 2017/05/19 by 伊達の居残り
この記事へのコメント

「鬼の会」様の記事ならびに「伊達の居残り」様のコメントを拝読し、溜飲が下がりました。ありがとうございます。
『手塚孝氏は「前田慶次屋敷跡」の発掘も担当されており、鬼の会の記事を拝読すると、とても心配になります。』と書くことにより、「手塚孝支持者」ではないことを表明したつもりでした。誠に申し訳ありません。
Posted at 20:34:34 2017/05/18 by
この記事へのコメント

遺跡捏造手塚孝支持者のコメントがあったようで、鬼の会様の的確な対応に敬意を表します。
1、東北電力水力発電一覧をご存じなら2基ある発電機の仕様が違う事はご存知であろう。水車の仕様が大きい方は、山上に小樽川水系の調整貯水池を設ける当初計画の痕である。曲輪Ⅱ北西の桝形口と手塚等が推定した場所は、小樽川系の取水口であり、この場所は下側の帯曲輪と推定した場所と現在使用している水路の場所と一体で東北電力の所有地となっている。→東北電力で遺跡指定を拒否したから指定除外地であるのは当然である。
2、3、一の坂遺跡は返答の通りです。『館山城跡』の名称は、手塚孝等が「遺跡指定を目指して(故意に間違えられることを意図して)便宜的に呼称したものである」と、『市遺跡調査報告書第107集・館山城跡』P例言七に記してある。手塚孝等が思わず悪計を吐露した証拠であり確認すべし。
手塚等が記録してきた館山城に関する調査報告書等の資料を精査してから手塚孝等を擁護したらどうですか。(価値のない土地を高価で買わせようとする悪だくみ者等のコメントと推測する)
平成26年度の本丸調査報告書まで「伊達氏に関わる『館山城』」と呼称していたはずだが、当責等の告発で、遺跡理由が「記録には残されていないが、上杉氏が普請した石垣遺構が残る遺跡で、伊達時代も何らかに利用されていた。」と歴史にもならない理由にすり替え、名称も『跡』の文字を付した姑息な手段で『館山城跡』にすり替えて遺跡申請したものであり、報告書第107集でも古くから呼称されていた名称ではないとも断りを記しており、従来説『館山城』地を『舘山平城』にすり替えたことも吐露していた。
手塚孝は田沢地区の遺跡調査で、土地の住民も容易に立ち入ることが困難な場所から短時間で遺物数個(1~2個)をピンポイントで発見した報告書を残している。米沢地域では神業を持つ考古学者と評価されているようだ。(遺跡捏造の藤村新一手法によく似てる。図書館に顛末記録が蔵されている)
舘山北舘調査でも「伊達政宗招来の織部を焼いた戸長里窯」製の遺物と「内耳土鍋」遺物が同じ場所から発見されたので、伊達政宗普請の館山城跡の有力な証拠であると『市報告書第79集館山北舘』に記録している。織部は政宗米沢時代には利休の弟子であった事で秀吉から追放され三重松坂蒲生氏の庇護を受けていた時期でまだ世に出ていない。まして政宗が秀吉への進物として戸長里窯製織部焼を持参したなどの妄想を記述していたことで、根拠証拠を捏造した「北舘遺跡」も捏造した遺跡となる。掘っ建て柱跡が伊達氏関係の屋敷跡にも捏造していた。
嘘つきを見抜くには嘘つき者が残してきた記録を遡れば判明するのが常である。手塚孝主導で行ってきた館山城調査記録を検証すれば辻褄の合わない捏造遺跡であることが明確に証明できるのである。
文化財登録は各教育委員会の絶対的な信用を重く用いる性善説に立脚した『文化財保護法』によって指定登録されるものであり、各市教委職員の中の悪意を持った者が故意に遺跡の捏造を行えば防ぎようがない弱点があり、これを熟知している者が行えば容易に捏造遺跡の登録ができる法律である。県教委文化課担当者も文化庁の文化財調査官も基本は公務員であり当責等の問いに「考古学・歴史学の専門家ではありません。」と回答され、「歴史的な評価は行わず、手続き的(書類等)に間違いないかを確認する業務に就いているだけである。」とも回答。なので「館山城保存指導委員会」なる役所特有の責任すり替えの会を立ち上げて責任を押し付けようとしたが、委員長伊藤清朗山大教授が去年の遺跡登録記念講演会で捏造を疑い、捏造遺跡が暴かれたが、すでに登録されてしまった。当責等は、指定取り消しの運動を行っている。
Posted at 10:21:50 2017/05/18 by 伊達の居残り
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