酒井彰氏の野望とその背景 【№03】

2011/09/12 (Mon)
前述の酒井巌氏と金子剛三氏の業績を背景に酒井彰氏を語ってみたい。昭和23年生まれ。新潟大学工学部卒業。
彰氏には兄がいた。名を貴氏と言い学業はズバ抜けて優秀であったという。
彼は東工大を卒業後父巌氏の会社を選ばず今後成長が期待出来るとして日本信販㈱に入社し将来を期待されたが若くして不慮の事故に遭い帰らぬ人となった。
いずれ後継者にとの思いがあった巌氏にとってその落胆ぶりは相当のものであったという。その優秀な兄に比べ弟彰氏は何かと比べられ育ったのではなかろうか。
伊達政宗とその弟に対する親の愛程では無いだろうが、その時のコンプレックスが現在の彰氏のバネとなっているような気がする老生である。
卒業後は父巌氏の会社で後継者の道を歩むのであるが米沢青年会議所に入るとそのやんちゃぶりは相当なものだったという。
・相場への投資
彰氏が入社する以前より㈱北陽にはT・M氏なる人物が居た。彼は元米沢信金に勤めていたが不祥事を起こし解雇されたところを巌氏に拾われ、その恩義に報いる為のがんばりは巌氏も高く評価していたが、相場に手を出し会社の金に手をつけてしまった。
後にそれが彰氏も加わっていた事が明らかとなり父巌氏は彰氏の分を穴埋めしてT・M氏だけの不祥事という事で決着をみたが、それ以後彰氏にとって父は超えがたき大きな存在と成ったのではなかろうか。
その後彰氏の経営方針への発言が増す訳だが親子での意見衝突は激しかったものと聞く。
老生は、公金を私益獲得ために流用したこの行為に将来の彰氏に一抹の懸念を抱えた記憶がある。
・経営方針の変化
時を経て彰氏が経営者として実権を握るとその方針に変化が見られるようになった。
例えばナウエル事業の草創期には地元業者からの仕入や業務委託を行い関連業者もナウエルの会員確保拡大に協力し裾野の広い地元企業との評価があったが、彰氏に成ってからは儲かればよいという事か仕入は殆ど県外からとなり事業委託分野も自社で行うようになった。特に葬儀の参列者へ配られる事の多いお茶は不評と聞く。
時代はバブル期の最盛期は過ぎたものの持続する好景気により結婚披露宴の華美化は進みナウエル事業は順調にその業績を伸ばしたが厳しい仕入条件に地元業者は離れざるを得なかった。
そんな折、結婚披露宴の引き出物に誤魔化しが有ったという噂が流布した。 結婚披露宴前の打合せで、引き出物は食品メーカーを指定したのだが当日招待者に渡った物はメーカーが違う上、賞味期限の切れた物であった。
一生に一度の晴の式典に味噌をつけるものと早速苦情を申し入れた所、値引きの条件を提示したという。
この場合は先ず経営責任者が謝罪し事情説明を行うのが常識と思うのだが「責任は納入業者にある」と最後まで彰氏はおろか宮島氏さえも謝罪挨拶は無かったという。
この頃から勝てば官軍、金で解決の経営理念が形成されたのではなかろうか。
・葬儀事業へ業務拡大
時は結婚ブームも陰りを見せ、次は団塊の世代が迎える葬義に事業の軸足を移す訳だが、父巌氏も生前語っていた事なので自然の成り行きであろうがその中身には彰氏の個性が見られる。
そもそも葬儀とは町内の人々の協力で行われてきた歴史があり、喪主やその家族はその行為に対し一切の心遣いを求められるものでは無かった。
ナウエル方式は喪主を門送りに立たせたり、本来葬儀をお手伝いしてくれた方への喪主の感謝の席である壇払いをあたかも結婚披露宴招待者の如く多数出席者の設定とし、喪主の大きな負担となった。
老生も元市議の葬儀の相談を受けた時、ナウエル営業マンの勧めは100万円を超える喪主持ち出しの設定であった。
おろおろする喪主に先ず壇払いの経費を削減し何とか足の出ない葬儀で事なきを得たが下手すると大きな借金が残るところであった。
結婚披露宴が一時の華美なものから最近では「地味婚」へと変わった如く、豪華絢爛な葬送の義もいずれ廃れるものとは思うが、尊厳ある人間の死を利益獲得の手段として拡大する事は互助会の目的になじまないのではないか。
死の商人との謗りを受けぬよう互助会の原点をもう一度見つめ直す時期にあるのではないか。
続く

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