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舘山城の怪④

kage

2016/11/11 (Fri)

舘山城の怪④

 舘山城の怪は前述に止(とど)まらない。
 発掘調査により石垣が発見されたとして、市当局は平成25年10月27日に現地説明会を行った。 配布資料には、「この石垣は蒲生・上杉時代では無く、伊達政宗が築いた石垣としては仙台城より古いものと考えられます」と記述してある。

 この記述に対して、まちの歴史研究家の伊藤氏は、『伊達時代の石垣は「野面積み(のづらづみ)」であり、発見された石垣は割石して表面を削った「打込みハギ」であるから、江戸時代以降のものである』と抗議した。
 すると米沢市文化課は、配布した資料に「伊達時代」と表記しておきながら、「上杉景勝時代のものと考えられる」と新聞に発表して、「伊藤氏に指摘されなくても分かっている」と装い、国には「伊達・上杉の時代に普請された山城」と申請して認定を受けた。

石垣01  石垣02

 前段の写真を御覧頂きたい。左が今も芳泉町に存在する、上杉景勝・直江兼続の石垣(野面積み)であり、右が同時代に築いたと称する「発掘された舘山城の石垣(打込みハギ)」である。  
【疑問1】
 舘山城の石垣(打込みハギ)が上杉景勝・直江兼続時代と言うのなら、舘山城以外に米沢市のどこにも、打込みハギ工法の遺構が発見されないのは疑問である。
【疑問2】
 関ヶ原の戦いによって、120万石の会津より、30万石に減封されて米沢に移封したのは1600年。その後、上杉景勝は1603年に命ぜられて江戸城の石垣普請を行っているが、その石垣は舘山城の比では無く、綺麗な仕上がりとして今も見ることが出来る。
 その技術が有りながら、景勝が写真のような不揃いな石垣を指示したとするのは疑問である。
【疑問3】
 直江兼続は江戸より米沢の平林正恒宛てに、「舘山之儀一切無用之事」との書状を送っている。
【疑問4】
 会津120万石の上杉景勝が築城(神指城)に着手した時、徳川家康より「謀反の疑い有り」として申し開きを命ぜられたが、直江兼続は「直江状」をもって家康に逆らった。
 この事をキッカケに関ヶ原の合戦が始まり、豊臣方が負けたことから、120万石の会津より、30万石に減封されて米沢に移封を命ぜられた時代背景を考える時、築城は家康に睨まれる事を学習して、米沢城(現在の上杉神社)には天守閣は勿論のこと、石垣さえも普請しなかった景勝が、舘山城に石垣を築こうとする事は考えにくい。
【疑問5】
 上杉景勝が舘山城を築いたと仮定した場合、どの様に利用するであろうか?
 時は徳川家康によって平定されているので、攻めてくるとすれば家康自身か、家康バックの諸侯を想定しなければならない。 この場合、減封により余力を失った上杉藩が、戦を想定して山城を築くなどあり得るだろうか。

 これまで「舘山城の怪」を縷々述べたが、これ以外にも疑義は多数有り、到底「舘山発電所=舘山城」とは考えられない。
 東京都の豊洲問題で「都行政の杜撰」が全国的に認識されたと思うが、行政の杜撰は東京都に限らず、この様に地方自治体も同じである。 

この記事へのコメント

kage

伊達の居残りからの訂正のお願い。
当該館山城の遺構を「打込ハギ」石積であると鑑定していたのは市教委職員手塚孝の主導で進めてきた市教委であります。現地説明会資料にも、マスコミ等への発表も行っていた。
私は、石材の供給先と示していた「米沢市埋蔵文化財遺跡調査報告書第49集矢子山城」頁20に手塚孝責任著筆で「矢子山城の主要遺構の石垣は『打込はぎ』に分類される。この石積は慶長年間頃に流行した工法」との資料を市教委に提示して、矛盾を指摘したものであり、私が「打込接ぎ(ハギ)」(接ぎ=ハギと読むようです)と指摘したものではありません。
私は「打込接ぎ」石積工法そのものではないと見ています。石材表面の鉄槌の加工も鋭く平面すぎて、近代の加工と考えられる。
また、市教委の「打込接ぎ」の説明で、石材の矢穴痕を根拠としているが、この説明では石材をはがす加工をさしている解釈のようである。「打込接ぎ」とは、石積の工法を指すものと言われており、石材をはがす(割る)意味では無いと考えらる。

Posted at 09:36:50 2016/11/11 by 伊達の居残り

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kage


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