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奥羽の賊酋と呼ばれた「雲井龍雄」が「義」の伝承者として全国に

kage

2009/12/03 (Thu)

 12月3日、NHKは「天地人」の好評にあと押しされて、上杉謙信公由来の「義」を貫いた人物として興譲館精神を取り上げ全国放映した。

  謙信・兼続・鷹山公とつづいた「義」の伝承者として、興讓館の秀才、雲井龍雄をあげている。幼名は豹吉、後に成人してから小島龍三郎を本名としている。
 戊辰戦争勃発以前、龍雄は半蔵門近くに私邸のある安井息軒の三計塾に学び、息軒に乞われて塾頭をつとめたほどの秀才であった。
黒船の来航によって「鎖国」「開国」論が激しく激突し政治は岐路に立っていた。内乱を避ける和平論は雲井らが唱える「公議合体」構想であった。が、薩長連合の反幕論によって戦乱が開始されるに至った。
 米沢藩は盟藩会津攻撃を受諾し、一兵の援軍をも会津に送ることなく、官軍の道先案内を申し出るに至った。
 龍雄は米沢藩家老が「義」を捨てた現実を激怒し「ずくたれッ!」と蔑んで米沢を放れ東京にいくことになる。東京には、戦乱に駆り出された武士たちが、浪人者として氾濫していた。 これら浪人たちを新政府の天兵として雇い入れることを誓願していたのだ。
 龍雄の事業所?は品川の二本榎にある上行寺に「帰順部曲点検所」の看板を掲げ、浪人らの生活のために諸藩から寄付を集め、新政府に天兵採用の嘆願書を出しつづけていた。
 帰順部曲点検所に集まる浪人が二百人を越えるようになり、これを「反乱分子」とみた新政府は龍雄はじめ50名余の浪人を逮捕、裁判もなく、明治3年12月28日小伝馬町の囚獄で山田吉亮の手で斬首された。享年27歳の若さであった。遺体はわが国最初の献体として現東大に差し出された。
 「義」を貫こうとした雲井の行為は米沢藩にとって「ゆゆしき行為」と写ったのであろう。以来、100年の長い間、米沢の為政者たちは英傑雲井龍雄の名を意図的に伏せてきたものといえよう。

 不肖、私ごとで恐縮だが、私がはじめて書に接したのが雲井籠雄伝であった。無論、学校に入る大分前のことである。
近衛兵の父が家人の手の届かない場所に隠して読んでいたらしく米沢での発禁の書であっただろう。

 雲井龍雄の名を知らない米沢の人たちは多い。が、NHKよって全国にその名がとどけられ、明治の知られざる英傑の偉業を慕って多くの人たちが訪れるであろう。
  米沢在住の文人たちによって雲井龍雄は書かれているが、例外なく政治犯としてとりあげた作品はなく、詩人としての著書である。
  老生は雲井を書くにあたって、新政府に「義」をもって反抗した英傑として著した。老生は戯曲作家であるから、大舞台の上演台本用として書き上げたもので、上演はともかく作家たちからは稀にみる大作として称賛されている次第。
  国会図書館をはじめ全国県立図書館の蔵書として扱われているからご高覧頂ければ幸甚これに過ぎるものはない。著書の残部わずかだが、米沢書房に扱ってもらっているから求められるのも一興。

 なにはともあれ、老生が崇拝する「義」の伝導者雲井龍雄の名が全国に知られたことに万感胸に迫る思いでブラボーと叫びたい。


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