吹くか改革の風濤 平成維新となりうるか。

2009/08/25 (Tue)
解散から投票日まで前代未聞の長丁場の選挙である。高校野球の合間を縫うようにして政権報道の毎日である。報道の中身は刻々と選挙結果予想を軸として進んでいる。民主主義は議員の数の論理である。新聞は民主党破竹の勢いで「300議席確保?」から「民主党300議席確保」「民主党320議席も」と毎日の紙面は狂乱する。議席数では民主党単独政権が実現する勢いのようである。
しかしながら報道はマイナス要因としてなりうる場合もおうおうにして働く場合がある。報道を利用した選挙操作のテクニックだとすれば自民党最高の選挙戦術だともいえようが、現世を吹き荒れる風濤が容易に沈静化するとは思えない。結果は自民党長期政権は民主党によって奪取されるであろう。が、問題は残る。 永年野党に甘んじてきた政党が政権を握った途端に起こりうる政権奪取後にくる論功行賞による人事であり、政策の暴走が危険な部分だ。
はじめは「政治献金の有無」の叩き合いから、「永田町改革」が両党のメーンテーマであっただけに他党は別としても自民党の長期政権の現実から今更に公務員改革・官僚支配の政治から脱却した政治が出来うるのだろうか。
今までの奇弁政治が国民離れした最大の風濤となって日本全土を吹きまくっているのであろうが、この風濤は明治維新以来怒濤となって日本の政治形態を変える「平成の風濤・平成維新」となりうるのであるか。
政権交替が可能であれば永田町官僚たちの抵抗も激烈なものになるだろう。実際には官僚支配によるわが国の支配政治であったが永年にわたって自民党でさえ官僚の我儘に目をつぶってきたのであるから、民主党が本気になって官僚支配から体制を立てなおされるとは思えないのだ。
問題は新政権党と官僚とのダマシ合いとがどのあたりで決着がつくのであろうか。このこぜり合いが長引くようでは折角の民意も台無しになってしまうではないか。
片や上級国家試験をパスした官僚である。議員といえども必ずしも官僚を凌駕するだけの頭脳の持ち主だけではあるまい。頭脳だけではなく官僚が手懸けてきた精緻なデーター管理による事務方の実際面などについては議員たちにわかるわけがない。
議員たちの本音は議員職を失わないことが第一の命題である以上、官僚体制がどうあれ議員生命をかけて戦う議員がいるとは考えにくい。本音で平成維新を構築せんとするならば「連呼や握手」せめだけの選挙戦だけでなく有権者に向けて「官僚改革の具体的手順」を示さなくてはなるまい。
単なる官僚の無駄使いや官僚が積み立ててきたという「埋蔵金」だけに目をつけているようではもはや政治家とはいわない。
明治政府の官僚は天皇による任命制度であった。明治維新以来、東京大学法学部は「日本をまもる責任」を学生に叩き込んできた。彼らにはその誇りがある。鎖国から開国以来の官僚たちがもつ誇りである。
その誇りを尊厳し「日本を護る責任官僚を喪失」させるようでは平成維新は成立しないのである。

どう考えてもおかしい。臭気対策は政治の責任だ。 ≪ | HOME | ≫南原方面の臭気地帯を見聞して思うこと。
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