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墓場にもっていくつもりだった。

kage

2009/08/16 (Sun)

  終戦を迎えたのは小学6年生の時で疎開先の蚕桑村(現白鷹町)の兄嫁の実家であった。
部落にはめったになかったラジオのある家だったから、人が集まってきてラジオの前に座りこんでいた。無口で不安気な人たちの顔を今でも覚えている。
1週間ほど前に部落に流れたニュースは「大型の電気爆弾が落とされたんだとよォ」だ。敗戦を終戦だと言い換える神風待望論の不発に終わった屈辱の日本である。
終戦の日の朝まだき片道キップの飛行機で南海の空に飛び立った特攻隊の青年たちもおったろうに。「昭和万葉集」は当時の青年たちの詩歌を綿密に記録している。

 15日夜の報道は「激戦地帯の生き残り将兵らが語る苦渋の番組」をみて戦中派だった老生は慄然とした。
激戦地といえばガダルカナル・ニーギニアに代表される南国の島々である。送りこまれた日本兵士の大半が全滅していくのに大本営の発表は「好戦中であり、日本軍の勝利間近」であった。
今では生き証人となった彼らがいう「墓場までもっていくつもりだった。凄惨な戦場のことは夢の中でうなされつづけるだけでいい」ある輜重兵は「あと何人死んでくれれば、生きられるか」と指折り数える飢えの戦場だったという。

 近隣の住民の中に輜重中尉として弘前連隊で終戦を迎えた人がいた。軍のトラック2台を活用し軍の物資を土蔵に運びこみ再び弘前連隊に舞い戻っていった。老生の兄は宮城を警護する近衛兵だったが、帰還した姿は毛布1枚だけの惨めな姿だった。
それに比して内地連隊の輜重中尉殿が運びこんだ軍物資との差はなにを物語るものであろう。激戦地で飢えに苦しみながら死んだ兵士もあれば、大量の軍事物資にありつけた立場の中尉殿もいた。
いまでは土蔵は解体され、店舗も閉鎖し草むらの貸駐車場に化けている。
戦争で命をおとした人、立場からドサクサに紛れて軍事物資を運びだした高官もいる。

戦中派だといえ6年生で三八銃を肩に上杉神社参拝が名誉だったと神風を信じて疑わなかった少年時代がなつかしい。
「仰げば尊し我師の恩」わが師は尊いのである。神風を信じ、わが師がいる以上、決して負けることのない戦さであったはずである。
「リンゴの歌」や「だれか故郷を思わざる」が流行していた年の敗戦である。わが師は「どちらの歌も二番目は歌ってはならない」と教えた。女にうつつ吐かす女々しい男の子として育ってはならないとの戒めであったのか。
軍隊ラッパや剣道具などは残してはならないと石でラッパを潰し、防具類はガソリンを撒いて川原で焼却させられた。あの悔しさは終生忘れえぬ思い出となっていくのであろう。


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