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青年よ!「閉じこもるなかれ」 郷士には雲井龍雄なる英才がいた。

kage

2009/05/29 (Fri)

 今もって変わらず時の権力者というものは、その権力を守り抜くためには無常な殺戮すら辞さないものである。

  明治維新後、薩長閥の新政府に果敢に楯突いた人物が二人いる。
佐賀の乱で知られる江藤新平(江戸府判事・左院副議長)は文部大輔として、フランス流の民法典編纂に従事、司法卿となり司法権の独立と警察制度の統一に尽くし、改訂律例の制定を実現した人物だが、西郷隆盛・板垣退助らと征韓論を主張して破れ下野。 後に征韓党に推されて首領となり憂国党と結んで挙兵する。
「近代的な法体系の導入」や「地代・家賃の値上げ・問屋仲買いの独占廃止」など民衆の要求を反映した近代的政策を行いながらも、大久保利通や岩倉具視らが政権を牛耳る有司専制体制を克服する道を誤り士族の反乱に求め新政府によって処刑された人物である。

  雲井龍雄は維新戦争後に溢れた浪人者(現在の無職者)を新政府の軍隊に採用せよと新政府に嘆願しながら、糧に困窮する浪人たちのために「帰順部曲点検所」をつくり嘆願をつづけていたが、点検所に集まる浪人の数が多くなり新政府は反逆の恐れありとして米沢藩あずかりとして幽閉する。
明治3年に米沢藩から東京府に檻車にて移送され小伝間町の庭先で処刑される。享年27才の知られざる英傑であった。

  問題は、新政府が国の処刑について明治4年1月1日より「斬首刑の廃止」令をだしたが、雲井は明治3年12月28日、わずか4日まえの年の暮、江藤新平の場合は明治7年4月13日に梟首(斬首刑)に処され、後者に至っては新政府が禁止令を出してから3年後の斬首刑であったことだ。

  今になって考えられることは「権力者」とは、権力に歯向かう英傑の力量を知るだけに手段や法律を無視してまでも抹殺する他に術はなかったものであろう。
両者ともに日本の夜明けを信じて命を賭しながら志なかばにして権力の前に挫折した男たちであった。
  江藤は佐賀藩からの脱藩者であり、雲井は米沢藩に筆舌に尽くせない忠誠を尽くしながら、米沢藩は新政府からの後難を恐れるあまり雲井を政治犯として政府に差し出したものである。したがって米沢の地では雲井龍雄の名は永年禁句とされてきた事情がある。
  米沢から有志による雲井龍雄に関する著書は何冊かあるが、すべての著書は雲井を政治犯として新政府を恐れさせた英傑ではなく、彼を評価するに漢詩をもって詩人とした。
  老生が前年に著した戯曲「知られざる英傑。雲井龍雄小伝」4幕は、大劇場向きに書いたもので、全国の県立図書館に収められている。無論、米沢市図書館にはある。
「戯曲春秋社」による出版で現在残部は少ないが、米沢では「米沢書房」さんにお顕いしてある。小説と違って舞台劇であるところから専門的なところはあるが、老生は「雲井龍雄」は郷土の人間にしかわからないリリシズムに視点をおいて著したつもりである。 中央の演劇先輩から「大舞台で演じられるべき壮大な戯曲」との声もある。

 米沢の地は龍雄のような英傑を輩出する風土である。 若者よ、大志を抱いて世に出でよ。
親の庇護に甘えて「閉じこもっている場合ではあるまい!」
老生は「閉じこもり」の話を耳にする度に「甘えているんじゃねえよ、キミの人生を小っぽけなものにしていいのか。
理屈はあるだろうが、そんならば堂々と吐いてみるがいい。聞く人が納得できる理屈をな。聞く人を感動させるほどの理屈があったら老生は土下座するよ。手前かってな一人称だけの理屈は社会が認めねえだけだ」

1日平均して100人が自殺するというわが国だ。キミだけは仲間入りしないことを望む。


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kage


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