名優緒形拳(こぶし)の死を悼む

2008/10/09 (Thu)
名優緒形が逝った。今朝のテレビで知って驚いた。先月、築地の研究会の席では緒形が特別話題にのぼらなかったので元気で活躍しているのだろうと別に気にとめることもなかった。緒形は千葉で新聞配達をしながら高校を卒業した苦学生であったことはあまり知られていない。当時、新国劇で辰巳柳太郎演ずる「王将」坂田三吉役に感激、坂田三吉を演じてみたいという情熱から御大辰巳柳太郎の内弟子入りした。
「王将」の作者は演劇界の天皇といわれた故北条秀司の名作として一世を風靡した作品であった。
ところが坂田三吉役は辰巳柳太郎の当たり役として終生温存されていたことで緒形が演ずるのは辰巳柳太郎亡き後だった。北条秀司は緒形を新国劇入団当初から、彼の人柄と才能を見抜き実の息子に接するが如く目をかけていたものである。北条は辰巳・島田という新国劇団の看板役者がいるかぎり、緒方が若くして才能を埋もらすことを心痛していたのだった。
北条は緒形に三吉を演ずることは許さなかったが、辰巳のいる新国劇にいるかぎり緒形が世に出る機会はないとして緒形を新国劇から退団することのかわりにNHK大河ドラマ「太閤記」の主役に抜擢させるのである。以来、緒形は役者として大道を歩むことになって行く。
新国劇の若手俳優として、緒形は辰巳柳太郎の「気合いを導入する」殴られ役であった。初日を数日に控えた劇団の舞台稽古は激しいものだが、特に新国劇団の稽古には言語に絶するすざましいものがあった。
役者ともどもスタッフに至るまで疲労の極致に達した頃、辰巳が「緒形ッ!」と舞台上から大声をあげる。と、袖幕にいた緒形が舞台にいる辰巳に駆け寄っていく。と、大男の辰巳がいきなり緒形の顔面を張り倒す。無論、緒形は吹っ飛んで行。「よ-しッ気合いが入ったッ!」これが団員をまとめあげる辰巳流の「気合いの入れ方」であり、こうして舞台稽古も無事にすみ初日の幕が揚がるというわけだが、島田・辰巳の老いた二枚の看板役者が若手役者を育てなかったことが、後日、新国劇の解散につながって行くのだ。
老生の劇作上の師佐々木武観が北条秀司の愛弟子であり演出助手についていた関係から明治座での舞台稽古に立ち合う機会に恵まれた時のヒトコマだった。
緒形は辰巳亡き後、「王将」をもって米沢公演を行なっている「演劇を観る会」の誘致によるものだが、上演後「緒形を囲む会」では酒を一滴も飲めない彼が最後まで付き合い会を盛り上げる役目をしてくれたものである。
その頃、老生は仲間と立ち上げた自立劇団「北方芸術劇場」の主幹をしていたが攻今村昌平監督になる「ええじゃないか」の米沢ロケが行なわれるとあって、エキストラが集められていた。
劇団員も手伝うことになり、アチコチの撮影現場に移動しておったが、新潟でのロケは緒形と一緒で、緒形は団員に請われるまに写真におさまってくれたものである。
上杉公園を背景にした「夜の大川べり」でのセット撮影では劇団員が総出の出演になったが、準団員の女の子が親しくなった緒形に「明日はわたしの誕生日よ」といったことから緒形は「何かお祝いをしなくちゃ」と律儀にも誕生祝いを届けてくれたことがある。
劇団の公演には花束を贈ってくれたのが緒形であり、北条の名作「霧の音」4幕であったことから「米沢に行くならぜひ観てこい、と、北条に命令されているが予定が取れないので花束だけで勘弁して」と帰っていったが、それが老生との最後になった。
彼は老生より4才年下だが、近年めっきり白髪が増え、老人臭の漂う顔はメーキャップばかりの精ではないと案じていたが、まさか肝臓破裂を起こすまでの仕事の虫だったとは。せめて、彼を収録したビデオやアルバムを開きながら。朔北からの合掌としよう。

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