米沢混声合唱団・難曲「フォーレの鎮魂ミサ曲」に挑戦

2008/08/05 (Tue)
昨日(8月4日)米沢文化会館に荘厳な鎮魂ミサ曲が流れた。米沢混声合唱団を中心とした各地の「フォーレを歌う」愛好者総勢100名による熱唱によるものであった。しかも、難曲といわれるレクイエム全曲を3年間の月日を投入しての成果であったことを知り改めてフォーレに寄せた熱意と勇気は賞賛されるべきであろう。
文化不毛の地と市民自ら卑下してきた米沢市の誇りとは皆無なのであるか。少なくとも昔から地道な活動をつづけている団体やサークルが生き残っていることの証左だ。
残念なことだが、米沢市民には文化に対する理解と造詣とに欠けてきた歴史がある。上杉の城下町で存続してきた米沢市である。いわば武人優先の風土に染まりきった町であるからだ。したがって、戦時下にあって軍人の高官を輩出した町であり、軍人教育に熱意をこめた町であったことから、町の体質は文化芸術の類を「歌舞伎者」として番外の扱いをしていたのだ。だが、隠れキ リシタンの如く文化芸術に思いを寄せる人たちも存在していたことは申すまでもないことだ。
いまをときめく画家の存在もあるが、極貧の生活に甘んじながらも己れの芸術文化を、後世に残し語りつごうとした人たちもいたのだ。
聴衆で埋めつくされた会場で淋しく思うのは、若い人の顔が少ないことだ。観客だけのことではない演奏者のメンバーにも見当らないことだ。これには「陽のあたる場所」だけを求めて地道な活動をよしとしない風潮が若者たちの間に充満しているからに違いない。が、それは錯覚というものであることを知らない若者が多いのだ。地道な研鑽活動をつづけた本合唱団は、今回結成10周年記念コンサートを開くに至った。
団員40名という小さな混声合唱団だが、10周年記念コンサートのために難曲中の曲・フォーレのレクイエムに挑戦した勇気と熱情には脱帽以外にことばはない。3年の間燃やしつづけた不屈の精神は合唱団の歴史を飾ることになろう。
蛇足だが、老生にとってこの曲は忘れることのできない-曲である。40年ほど前になるが、親友の音楽マニアが一枚のLPをもって、興奮気味に「君ッ!これが音楽の真髄というものだ!鑑賞したまえッ」といって置いていったのがフォーレのレクイエムだった。後年、彼の葬儀に阿弥陀如来の前で「フォーレの鎮魂ミサ曲」を彼の意志にそったことを思いだす。彼が老生に強要した曲がフォーレのそれであり彼の魂の拠り所でありえたことは見事なことであったと思いつづけている。
老生は舞台人だから、それなりの見識を積んできたと自負している。アマリズムに欠けているのが公演時のステージマナーであろう。
幕が上がり幕が閉じるまでの時間には一切の妥協も言い訳も通用しない厳しさに欠けていることだろう。観客はアマの公演に上手さだけを期待して席につくのではない。
アマには旨さだけを期待するのではない、キラリと輝くものがあればいい、老生はそれを求めて聴衆になろうとする。いまさら申し上げるのは酷だとおもうが、リクイエムの真髄はブロック建築様式の教会に吸い込まれるように流れるソプラノの澄んだ歌声ではなかったろうか。
帰宅して早速聴いてみた。老生の聴覚に錯覚はなかったようだ。研鑽することに限界はない。コンサートが終わりではない。中間地点に到達しただけでのことである。さらなる研鑽を熱望するものである。舞台マナーについて摘出したいこともあるが、難曲に挑戦された怖いもの知らずのアマ精神に賛辞を送る。

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