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遠方より友来たる。

kage

2008/07/15 (Tue)

 興譲館高校(旧制米沢中学校)最後の同年会が南陽市で開かれるとあって福井県の名所東尋坊の入口に居住する文学上の友が老生と二日間を米沢で過ごした。彼は義母と従兄の関係から縁戚にあるが名家の出だが、それと関係なく老生とのつきあいは文学上、若い頃から敬愛する先輩でありつきあいも長かった。
 彼の曾祖父は上杉公のご教師役をつとめていた人で、殿様といえども師の前では儀礼を重んじた挨拶をしたものであったという。
 無論、彼の父親は東京帝国大学に学び、国の政策である製糖会社の社長として、北海道から樺太にと製糖会社を進出させ、終戦後はシベリヤに抑留される運命となったが、彼の父親は戦況の不利を察知するや、樺太に単身居残りを決め、家族全員を妻の実家である米沢の素封家に疎開させて終戦を向かえた。

  そんな彼も79才の年令に逆らえず白髪交じりの頭髪は枯れはて昔の美青年の面影は減少しているが、舌鋒鋭く米沢市の退廃を見抜いて言い放った「町の退廃は歴代市長の責任だ。」まず文化がない。文化のバロメーターは図書館を見ればわかる。たかだか2万の町に暮らしているが、図書館は立派だよ。文化の高さがわかるよ」と宣う。
  「わが郷土は文化不毛の地だ」と老生は常に慨嘆してきたが、個々には文化の種をもっているが、文化を育む土壌がエセ自称文化人らに汚染されているという現実なのだ。もし、米沢中学最後の同年会なる死戦を生き抜いた彼らが大挙して米沢市民となっていたらと他愛もなく期待に夢を膨らませるのだ。

  彼らの学徒時代は終戦によって辛うじて命拾いした年代であるが、少年飛行隊として南海に散った学友たちもいる。戦争が1年も長引けば彼らの大半は戦死していたはずだ。
  いうなれば死線を彷徨った年代の同年会だった。現市長の父親も生きていれば出席できた同年会には国会議員もいて、米沢市を革命できたであろう中心的な人物がズラリと名を列ねていたが、彼らの青春時代は「海軍」や「陸軍」などの月刊誌に戦意を高揚させ、優秀な学生は「海兵」「陸士」をめざし、大儀のために殉死することを覚悟していた群像であった。名誉の死をもって男子たるものの生きざまをよしとした最後の年代だったともいえよう。

  彼との二日間は、彼の希望によって米沢の駅舎を案内した。いまは無人駅となった西と南の両駅である。旧高専裏に位置する雲井龍雄の墓前で山岸外史が号泣した逸話を聞くに及んで老生に感じることがあり瞬時、言葉を失うなどして時を過ごしていたが、彼がポツンと「学徒動員で毎日渡った橋はなんといったかな」と、寂しげに問う彼に若生は「福田橋かな」と答えて橋の上で車を止めた。
  考えてみれば彼らの青春は未だに戦時中の体験で色濃く染められていることを察してあまりあるものだった。彼は別れ際に「米沢の為政者たちに文化の心があれば、これだけ崩落した町にはならなかったはずだ」と、言い残して車中の人となり郷里を離れて行った。

  彼が言い残した言葉の中で、雲井の墓前で山岸外史が号泣した人物こそ「米沢藩に忠実な働きをしながら、戊辰の役でなした米沢藩の武士道にあるまじき行為に激怒し、米沢藩に見切りをつけて東京に旅たって行った雲井龍雄」である。田舎の小藩から突出した英傑雲井の志を知った人がいた。
  老生の師匠は「郷士の志士雲井龍雄を書くべきだ」と教えて黄泉の人となったが、米沢では雲井の名は禁句で知る人は少ないが、調べをすすめていくうちに「男子の本懐とは」何か?
  そして「男子の生きざま」を血を吐きながら説き回った郷土の英傑像を身近に感じられた幸せを終生もちつづけたいと思っている。

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kage


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