秋葉原無差別殺人犯に寄せる匿名の礼賛文

2008/06/23 (Mon)
社会を震撼させた秋葉原無差別殺人犯に対する激励とも共感ともつかぬ書込みが予想をうわまる数にのぼり当局を混迷させているという。事件を報道で知ったとき、老生はことばを失っていた。「バカ者めがッ!」という感慨とは別に命を粗末にする青年の思慮の浅さに怒りが治まらなかった。
今では死語となってしまったであろうが、戦時中「国の御盾」と信じ、片道キップの特攻機に搭乗し、南の海に青春を散らして逝った青年たちも彼らと同年代の若者であったことを忘れることはできない。
「昭和万葉集」を開き目読するだけで国体に殉じた彼らの正義と無念さが心をとらえてならないのだ。
★特攻隊の総出撃を告ぐる朝霧深き海に折鶴流す
★大君の御盾となりて吾は今翼休めん靖国の森
★國民の安きを祈り征く敵艦隊の真っ只中に
★神風を翼にうけて必殺のわが体当たりいかで狂はむ
死出の旅路を前にして、彼らにも青春との惜別はあったのだ。
★あが熱き息吹まぢかにあるごとくふとおどろきぬ文よみおりて
★わが唇をうつつ欲るがに汝が圧せる唇型のやや開きて紅し
「生きたくとも生き抜くことを許されなかった若き英才たち」が日本に存在していたのだ。わずか60数年前までのことである。
木箱の底に秘めた遺書とともに、恩賜のたばこを故郷の父に送り、操縦桿に託した青春に別離する心境は老生らの想像をはるかに絶するものであったに違いない。
不平不満もあるだろうが、現実の社会は戦中戦後を生き抜いてきた日本人自らが崩落した焼土国家から築きあげて今がある。だからといって「平和と安全」が確約された国家だとはだれもが思っているわけではない。その勢力途上にあることだけは信じたいものだ。
例えば広島、長崎に米国によって投下された原子爆弾の表向きは「戦争終決のため」と洗脳されたが事実は米ソ連の核開発競争に先んじるため日本が標的にされた事実は知らされていない。
こうして巨大な権力国家の都合によって地球上が支配されている矛盾を是とする人間はいまいが、矛盾を承知で人間個人は「虐げられまま」それでも必死で「人生き永らえたい」と願うものだ。それは人間の尊厳だけでなく動物の本能といえるだろう。
「死ぬなら勝手に死ねばいいッ!」自分ひとりの不平不満だけで「だれでもいい、人を殺したかったッ!」甘ったれた根性と、生への未練があの惨状を起こす結果を生み出したものだ。
「十分社会を混乱させたかったッ!」 望みどおりの結果となって社会は混乱した。目的は達したことだろうが、彼の狂気の餌食となった犠牲者の命は地球上から抹殺されたのである。
この重大な罪を背負って己れも同じ人間の手になり死刑台の露と消えるのであろうが、故郷に残された両親は呵責に嘖まれる一生を送ることになるのだ。
親を恨み社会の不条理に激怒する気持ちはわからないではないが無差別に他人に八つあたりする愚挙は人間のすることではない。
人は親から与えられた「命を生き抜くために」生れてきたものだ。「生き抜くために」は試練と困難と挫折はあるものだ。それに打ち勝ってこそ己れの人生というものだ。 人を恋う心をもたない人間に恋する乙女はいないものだ。 すべてが社会の不条理だとする責任転換はあまりにも虚しい。
止まれッ!
彼の行為を是とする思慮浅き群像もいると聞く。彼の行為を礼賛するならば匿名の名に隠れた卑怯な振る舞いは止めよ!
堂々と論理的に意見を披瀝せよ。しかし、どんな論理をもってしても彼のとった行動は支持されるものではない。
不安材料が山積している現実ではある。だからといって己れだけの不平不満を爆発させ無差別に殺戮に走った行為は許されぬ。人間社会の約束事であり掟であるからだ。
考え方によっては「無差別殺戮」のため敵艦隊に突入していった特攻戦士と行動事態は同じに見えなくもない。根本的な違いは「個人的な不満の爆走であるのに対し、特攻戦士は「祖国の盾」と信じて散っていったことにある。
日本での自殺件数は年間約3万人と報道されているが、ほとんどが自己の理由によるものだ。たしかに現社会は青年たちには生きにくい構造であるかも知れない。その判断は「自己中心主義」からくる判断ではあるまいか。 その判断には幼児性があり思慮に乏しいものだ。何事においても迷ったならば原点に戻ってみることだ。 人間の原点は「この世に生を受けた以上、終焉を向かえるその時まで艱難辛苦を乗り越えて必死に生き抜くこと」にあると老生は信じて止まないのだが。

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