市町村合併を考える -6-

2008/01/15 (Tue)
④ 歴史的背景合併には各自治体の歴史的背景を無視することは出来ない。
置賜2市5町の住民が米沢市民を「ザワ衆」と呼ぶのは、過去のわだかまりが未だに残る証であり、この感情は上杉藩120万石が、会津より30万石に減封され、米沢に移ってからの藩政に起因する部分が大きいのでは無かろうか。
通常減封されたら家臣の召し放ちを行うが、米沢藩はその策を取らなかった。120万石時代の家臣をそのまま召し抱えた藩は財政が困窮し、近隣農民に過酷な税を課せたことは容易に想像が付く。
明治2年藩籍を奉還、明治4年に米沢県と改めた後、現在の東南西置賜郡・米沢市を「置賜県」とした。
その後、編成替えが有ったが明治22年市町村制の実施により、南置賜郡から独立し米沢市の誕生となる。この時全国で39の市が新たに誕生した。すなわち市政が制定された初年に生まれた歴史ある米沢市なのである。
「昭和の大合併」後、現在の置賜3市5町となるが、昭和には米沢市より木村武雄・黒金康美の強力な代議士が誕生し、その政治力は置賜地方のみならず県内に於いても米沢市の存在を強く位置づけるものであった。「八幡原工業団地」も木村武雄代議士の尽力によるところ大にして、米沢市の今が有る。
こう見てくると米沢は常に支配的立場で置賜をリードしてきた訳だが、支配する側とされる側の思いというものは、現在でも格段の開きが存在するであろう。
歴史に関心のある安部市長であるから、その点は充分考えに入れての置賜全域合併を選挙公約としたのであろうが、それを進める手法はあまりにも稚拙である。
考えても見てみよう。一般社会で内容の良くない会社が数社合併しようか迷っている時、従業員に「どうしたら良いか考えてくれ」などと言う社長が居るだろうか?
まずトップ会談で大まかな方針を定め、実務を事務方が行うのが常識であろう。
大事に於いては常識を越える奇策も時には思いがけない大きな効果をもたらすが、事、広域合併については今年7月まで結論を出さなければ成らない時間的制約がある。
事務方が話し合っても、会議の内容を持ち帰り首長の判断を仰がなければならない訳であるから時間が掛かるのは当然であり、新合併特例法の期限には到底間に合わないだろう。
現に市長は「期限に拘らないと」言明している。
すると「期限後」の合併を進めることになるが、前にも述べたように期限後の合併では置賜全域で年200億円もの普通交付税が減額され、更に国庫助成金が減額される。
そして職員は合併の途端に身分を失う訳であるからして、任せられた事務方職員が本気で合併を推進するなどとは考えられない。
安部市長特有の「やるふりをして何もやらないパフォ-マンス」で4年を過ごし、「住民の意見を良く聞く民主的な市長」と宣い、又市長選に立候補しようとの魂胆だろう。
再度言うが日本は「直接民主主義」ではなく「議会制民主主義」国家である。すなわち住民は選挙により選ばれた首長と議員に施策を付託したのであるからして、一々住民の意見を聞いて事を進めるのではなく、首長が方針を立て議会に諮るか、議員が提案し議会決議で事を進めるのである。
事、市町村合併については「住民投票」による意志決定も有るが、其れはあくまでも議論が煮詰まった最終段階での事である。初期段階からみんなの意見など聞いて事を進めていたら議論百出で何年かかるか分かったものではない。
安部市長よ、合併した20年後の置賜未来像を語ってみよ、語る責任がある。
鶴岡市・酒田市は合併特例法を活用したが、其れを活用せずに「置賜を一つとする広域合併」の財政面を含めた具体的推進論を話すべし。
《続く》

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