失われつつある「国家の品格」をどうする!

2007/10/28 (Sun)
日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」であると述べるのは「国家の品格」の著者、藤原正彦氏である。さらに著者は「国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた「論理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止める事は出来ない今、日本に必要なのは論理より情緒、英語より日本語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことであると提言する。すべての日本人に誇りと自信を与える書として「新潮新書」から発売されているので是非一読されたい。良書だと推奨する次第。
著者が三年間ほどアメリカで教鞭をとっていた時のことだ。アメリカ社会では常に論理の応酬で物事が決まっていく社会構造を爽快に思えた。が、イギリスのケンブリッヂ大学で1年ほど暮らすことになって伝統を重んじる国柄から論理を強く主張する人は煙たがられていたのだ。おなじアングロサクソン民族でありながら、アメリカとはまったく違う国柄で、そこでは論理などより、慣習や伝統、個人的には誠実さやユーモアの方が重んじられていたのだ。
改革に情熱を燃やす人も少しはいたが「胡散臭い人」と見られ、紳士たちはそのような人を「ユーモアに欠けた人」などと遠回しに評したりする。
イギリスから帰国後、著者は論理の地位が低下し、情緒とか形がますます大きくなったのだという。情緒とは喜怒哀楽のような生まれつき持っているものではなく、懐かしさとか「もののあわれ」といった教育によって培われるものだった。形とは主に「武士道精神」からくる行動基準なのだ。二つはともに日本人を特徴づけるもので、国柄ともいうべきものだったと書いてはばからないのだ。
さらに著書は大胆にも「近代的合理精神の限界」「論理だけでは世界が破綻する」「自由、平等、民主主義を疑う」と矢つぎ早に論じ、「武士道精神の復活を」「情緒と形の国・日本」と戦後失われてきた情緒豊かな日本人の回帰のすべを述べているのだ。
戦後「仰げば尊し」が斉唱されなくなり、「君が代」が国歌とされたのに今以て排除する教育がなされている学校もあると聞いている。このような教員でも国民の税金で生かされていることを考えれば、日本人として論理を改める必要がある。
こんな風だから国歌君が代も歌えない運動選手の顔が国際試合ごとに見られるのは日本人として悲しいものだ。
卒業式にそれぞれの哀感をこめて斉唱する「仰げば尊し」に至っては、「生徒に仰ぎみられるような教師でなかった」という自虐から教師たちが遠慮して歌わせないことは理解できても「生徒に生涯慕われつづける教師であり恩師でありたい」と願う教師はいないのであろうか。
小学生時代、悪ガキだった老生でも卒業式に斉唱した「仰げば尊し」を聴けば自然と懐かしい思い出とともに、恩師の顔が浮かび涙目になり、今でも心が洗われてくる。
敗戦の年の卒業だから、一握りの青ばた豆を噛み締めながら、なぜか熱い時を過ごしたことを覚えている。あの煎り豆は担任の教師が自宅で煎って持ってきてくれたものだ。
敗戦やバブル崩壊で、完全にアメリ力化された日本人であり、市場経済に代表される欧米の「論理と合理」に身を売ってしまった日本である。
老生は常に「叙情性の豊かな日本人の戯曲」を目標に「ことば探し」をする日々だ。老生の師北条秀司はあくなき「日本人の叙情性」を求めて戯曲を書き続けた作家である。舞台劇作家として劇界の天皇といわれ劇作生のあこがれ的存在であった師の意志を求めつづける老生である。
三人の娘たちには「どれだけの感動を受けることができたか」を毎日の日課とせよと教えてきた。娘たちが育ててきた孫たちにも同じことを老生は繰り返し言うのであろう。叙情性豊かな日本女性の存在を信じたい。

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