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米沢市長選 №12 [安部市長88の改革]に物申す! その六

kage

2007/10/19 (Fri)

■ 改革・項目63、87)市営球場を「皆川球場に」 「米沢市写真文化賞」創設

皆川球場・米沢市写真文化賞の創設は有権者の機嫌とりでないか!

 退職した市職員OBからこんな意見が飛び出した。米沢市営球場の名称が「皆川球場」に変わった。皆川選手は米沢出身のプロ野球選手であり、その卓越した投球技術は野球殿堂入りの実績でもわかる。そのOBが語るには、だからといって米沢市に特別経済的に寄与したわけではない。彼の名声はあくまでも個人的なものであり、その点では認められるものではあっても公的に寄与したという実績があるわけではない。そのような彼の名を公的な球場の名称に刻みこむ必要があるのであるか。彼は草葉の陰で苦笑しているのではあるまいか。
 おなじ意味で写真家の秋山庄太郎記念「米沢市写真文化賞」の設定を米沢市がするのは意味のないことである。確かに秋山庄太郎氏は著名な写真家であり国民のだれもが知っている人物である。が、真の意味では写真家とは言い難い分がある。酒田市出身の写真家土門拳とは根本的に写真家としての業績は薄い人物である。本来、わが国の写真家といわれる人物はおのずと写真哲学があった。木村伊兵衛氏は終生ライカを目の高さに構えたアングルから日本の原風景を残した。入江泰吉は「大和路」を残し、白川義員は「世界の華麗な山脈」を記録に残した。さらに白籏史郎は「白峰の神々しさ」を生命を賭して後世に残している。その点では秋山氏はスタジオで週刊誌の表紙を飾る著名女優を写していただけに過ぎない。いつの頃からか「蘭の花」を撮りはじめ「花の会」を全国に結成して写真愛好者を広げた部分は評価され、マスコミ写真家とアマチャアカメラマンには人気を博したものだが、米沢市が顕彰するほどの業績は認められないのである。
したがって、安部市長が選挙運動として最ものりやすい2名の人物ではあるが、米沢市が顕彰しなければならない人物が他にいるはずである。地元で生を受け中央画壇で活躍した人物は多い。
今をときめく「福王寺法林」は別格として、故人となった画業人はまことに多いものだ。

 文化とは掘り起こすことにある。市長応接間に掲額されている桜井佑一作の「夏みかんの図」は吉池市長時代に未亡人に頼んで30万円で譲り受けたものだが、文化音痴の高橋前市長に老生が絵の説明に行ったものだ。
 日本人が失いつつあるのは、日本人特有のリリシズムのそれである。「叙情性」とも訳すべき言葉であるが、世界に知られた日本人特有の情感であり、現代では全く失われようとしている日本人の美学である。
 歌詞も難解な上、巻き舌でわめく現代の歌に、もはや日本人のリリシズムは枯渇している。経済至上主義を標榜してきた現代の日本で失われていく文化の数々は多い。
 たとえば視聴率の高い番組を狙えば「斬ったはった」か「代わりばえしないタレントによる低能な番組」これがわが国のテレビ番組の主流をなしているかぎり、リリシズムの回帰はみられそうもない。
 日本はいつ頃から日本人らしさを失ったものであろう。女性がヘソを出して走りだし、女学生がことさらにスカートをまくしあげて歩く。これを老生たちは文化とはいわずして、女性の退廃だと考えている。

 同じようことが行政にもいえよう。候補者は策を労すことなく、市政に対する所信を堂々と述べるだけでよい。有権者は候補者と取り巻きの人物の評価から一票を投じるものである。全戸訪問や芋煮会場訪問などで一票を得ようとする候補者の気持ちはわからないでもないが、市長に当選したあとで何を為すかが候補者の基本生命である。勝てばよいだけでは済まぬ。そこで何を為すべきかだ。そこに候補者の文化が息づいているかどうかだ。

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