米沢市長選 №1 乱立形相を見せる市長選の根本問題を探る

2007/10/04 (Thu)
申すまでもなく、市町村長の立候補者に欠けてならない基本的な姿勢の第一義は「市民のためになるかどうか」を正しく判断できる感性にあるが、多くの市町村長の中には「市町村民の前に己れを優先させてきた首長」の存在があったことに有権者は心しておきたい重大な一点であろう。民主国家であるわが国は有権者の投票によって市町村長は選出され、その結果は有権者そのものの責任であることから、有権者が負わねばならぬ責務とは、「市民のためになるかどうかを第一義にする人物か」はたまた「己れの栄達や己れの営利を優先させる人物であるか」を見定めて市町村長を選ぶ識見が課せられことになる。
わが国における選挙形態は、今もって有権者に未熟性が残されているため、必ずしも理想的な人物だけを選出してきたとはいいきれないものがある。 地方ほど己れの利益を優先させる首長が多く、問題を醸し出しているのが実情である。すなわちその最終責任は有権者に皺寄せされることになる。
有権者の問題点は投票にあたり「人物の判定基準よりも投票を依頼する人物との個人関係を優先させる傾向」にあることで、これは有権者の無知と無責任な行動といわざるをえないものである。前後半世紀を超えてさえも未だに連綿とつづけられている主権在民の否定的行動ともいうべき悪癖である。
したがって、主権在民は否定され「たかが国民」との視点から、上意下達がつづけられ、学歴偏重社会が構築されてきたのであると考えられる。 高学歴を積んだ人物が犯してきた国民の不利益を考えてみても「国民年金」制度の不透明さや「グリンピア構想」の挫折と国民的莫大な損失や、問題視されている「検察・県警察の隠蔽体質」などは、すべて高学歴に立脚した官僚体質がもたらしつづけている現行動であることに国民は目を伏せてはならない。
本題にもどる。 今回の米沢市長選候補者乱立を考えるとき、つきつめると現市長安部の市政の無力さに要因があると考えられる。いわく、立候補を決定するにあたり立候補者のだれもが「安部よりは、オレの方がまだマシだ」と思っての立候補に違いない。それだけ市政に関心を寄せ奮起し立候補したものであろう。
いえることは安部現市長に市政を担当する能力が乏しかったからであろう。したがって、安部現市長に対するリコール運動だと思えなくもない。これは米沢市有史以来の珍事だともいえよう。
米沢市も田舎の小京都への運命をたどり細かな集落に低落するのであるか、それとも低落する運命にストップをかける市長を有権者の手で選出されるのであるか、はたまた現市長態勢で凋落する憂いのまま郷里米沢市を流れに任せておくのであるか。一に米沢市有権者の鋭意と判断にかかっているということである。 とまれ、凋落する米沢市を「ナントカせにゃならんッ!」という必死な叫びを基に、ひたすらに凋落しつつある米沢市政に歯止めをかけねばならぬ。有権者に迫られているその手段とはひとつ「安部現市政にストップをかけることだッ」それ以外に米沢市の凋落を止める有効な手段はないのだ。
かつて、吉池市政から長市政にかわった途端に「米沢市は再建団体」に下落した。近年騒がれている「夕張市の再建団体」以前に米沢市はその恥を経験しているのだ。再建団体となってからの米沢市は不況のドン底にあえいだ経験を忘れてはならない。「喉元を過ぎれば熱さを忘れる」ではならぬ。
本会の市長選に寄せる態度は、安部市政の失態の数々を精査し市民に明らかにすると共に「凋落する米沢市政にストップをかける」ことを第一義とし「各候補者の人物なり、市政に寄せる感性と力量などの真実を報告し、市政能力を検討する材料を提供することに専念する。
判定するのは有権者一人々々であることに言をまたないことは申すまでもない。

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