いじめ論あれこれ

2006/12/15 (Fri)
老生のいじめ論に反発があった。いわく老生の意見は「いじめにあったぐらいで自殺をもって解決しようとするようなひ弱な人間であれば、いじめ真っ只中の社会を生き抜くことができない」と述べた。それに対して投稿氏は加害者こそ糾弾されるべきだとする趣旨である。老生の意見を言う前に投稿氏に尋ねたい「あなたの家庭では食事時に、家族一緒になって食卓を囲みますか?」食事は家族一緒に楽しく食べるのが家庭の基本だ。そのことによって、親たちは子供の健康状態や学校生活の問題などに気づき対処してきたものである。 子供がいじめにあっているなら、兆候は感じ取れるものである。食事さえもバラバラな家庭はもはや正常な家庭とは言わず、親たちの無責任さだけが強調されるものである。
世界中の国で食卓を囲まない家族は日本だけであることを考えてみたことがあるだろうか。「いじめ」られる子供もいじめる加害者もすべて忙しさにかまけて食卓を囲み団欒しない家庭の子供が大半だと思っている。仕事にかまけて家庭生活を粗末にしてよいわけがない。不幸にしてそんな言い訳がましい家庭が増大しているわが国の実情だ。
いじめの原点は家庭にあり学校に責任をかぶせる行為は親の恥を曝すようなものだ。 食卓を供にする家庭では、子供が発しているシグナルを敏感に感じ取るものであり、対応策を考えるものである。「食欲がない」「学校に行くことをためらう」などなどの信号に気付かない親たちの無責任さが取り返しのつかないところまで子供を追い込んでしまう結果になる。これが老生の考えだ。 老生が苦学生の頃、現世に夢も希望も持てないと母親にこぼしたことがある「オレが母親に産んでくれと頼んだわけじゃない。勝手に産んで」と悪態の限りを毒づいたことがあった。母親は淋しい顔で老生に言った。「確かにお前のいう通り、頼まれてお前を産んだ覚えはない。そんなに生まれてきたことが迷惑だというなら、自分の命の始末は自分でやってくれろ」と哀しげに老生にこたえた。それ以来、老生は母に逆らったことはない。一皮向けた自分がいることに気づいた次第だ。だから、乱暴な意見ともとられがちだが、死にたいならば慌てず騒がず己れの終焉は己れの責任でやるべきで、他人のせいにするような、甘えた遺書など残す必要はさらさら不必要なことだと考えている。 すべての要因は家族の無知にある。

投稿氏「どこの上司も同じかな」に思いあたること ≪ | HOME | ≫いやな渡世になりやした。
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