「いじめに対する生徒の対応」と「聖職者の隠蔽体質」に怒り狂え!

2006/11/16 (Thu)
「いじめ」は今にはじまったことではない。生徒間のいじめには生徒同士による解決策があった。「いじめられたから」といって「死」に逃避的な解決を求めるとはあまりにも短絡的でひ弱な行動ではあるまいか。老生の少年時代は、生徒同士も教員たちも「鉄拳による制裁」が日常の学校での生活であった。育ち盛りの少年たちにとって「鉄拳教育によって」はじめて行動の善し悪しを教え込まれたようなところがある。それでいて登校を拒否するようなことはしなかった。人間も動物である以上社会性を身につけるためには「鉄拳教育」が不可欠であり、いたずらにエセ愛情的教育は不要である。
人間として社会性を学びとらねばならぬ時期というものがある。先人のいう「三つ児の魂」がそれである。それまでの時期に脳細胞が完成するものであるからで、それを実証するのが「鈴木ヴァイオリン教室の英才教育」である。ソニーの創始者井深会長の発案からであるが「3才児からの教育」の必要性が立証されているのだ。教育とは4才児からでは遅すぎるのだ! 家庭教育の重要さが求められるゆえんがそこにあるのだ。家庭教育には「教育」というよりは「躾の大切さ」が問われるものだ。3才児とは目に入れても痛くない程の可愛い盛りの子供だ。可愛いさの反面、子供には「反発心」が育ちつつあるのも同時期だ。
そこで「躾の時期」を見過ごしては親にも児童にとっても将来まで禍根を引きずることになる。
学校に入る前までの教育こそが親達による家庭での教育なのである。家庭教育での大事なポイントは「家族一緒に朝の食卓を囲む」ことにある。各々の理由はあるだろうが「家族全員が揃って食卓を囲む」ことが実行されている家庭から児童たちの大それた行動が生まれるわけがない。「食欲がない」「元気に陰りがある」などの子供たちの生活指導は家庭がすべき人間教育というものであろう。この大事な時期に的確な躾もしないで、学校に「子供の躾」を要求し責任を押しつけるのは人の親として恥ずべき行為だと言えよう。まず。学校行事に率先して男性が出席することによって教職員の緊張も高まるであろうし、授業中をもわきまえずご婦人の無用なお喋りにも終止符が打たれることにもなるであろう。
家庭生活における父権の復活こそが「いじめ問題」に対する第一の解決策だと思える。また、文科省を頂点とする教育委員会の存在が問題であろう。教育者として功労はあったとしても、定年退職後のいわば名誉職に違いない。第一線を離脱した人物が現場を監督するのだから経験の有無は別としてもエネルギーの枯渇した名誉職はひたすら役人同様「事なかれ主義」に安住して、怖れるのは名誉に傷がつくことだけであろう。したがって、責任の追求を嫌い隠蔽体質をこよなく構築するのであろう。教育フォーラムのやらせは酷いが、教育界の体質を如実に物語るものとして国民は怒り狂うべきではないだろうか。

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