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過大課税

kage

2019/07/27 (Sat)

過大課税

 今日の山新に「過大徴収1789人から」と米沢市の19年度課税ミスが報じられた。単年度220万円の過大徴収で、18年前より行われていたと言うから約4,000万円の過大課税が有った訳だ。

 納税は国民の義務であり、役所より送付される課税通知書には余り気配りせずに納税しているのが実情ではなかろうか。
 それは、大概の日本人が持つ「公務員は優秀で間違いを起こさない」との信頼関係からであろうが、小生思うに十数年の当会活動から、公務員は捏造・隠蔽は常套手段で、憲法で「全体への奉仕者」と定められているにも関わらず、その気概は微塵も感じられない。

 今般の事件も、「官製詐欺」と当ブログに投稿のY氏と役所に出向き、担当官と面接して過大課税を指摘したが、「間違いはない」と反省は感じられず「何とかこの場を誤魔化そう」との態度アリアリである。
 それは、公務員の常套句「前例がない」との文言で市民の要望をシャットアウトする性癖が、「前例の有るものは正しい」との固定観念から「間違いはない」との態度に出たのではなかろうか。

 大概の市民は市職員に「間違いはない」と説明されると引き下がるであろうが、Y氏は法に滅法詳しく、理を詰めていくと担当官はたまらず間違いを認めたのであった。
 間違いを認めたならば第一番に当事者に謝るべきところ「謝罪は市政協議会の後で」とのことだ。そこで昨日市政協議会を傍聴したところ、議員に対しては謝罪の意を示したが、その後問題提起のY氏への謝罪はなかったという。

 これは、「議員には一目置くが、市民は軽くあしらう」との意識が有るのではないかと思わせる不愉快な事件であった。

改元に思う

kage

2019/07/25 (Thu)

改元に思う

 平成から令和に改元されほぼ3ヶ月が経過した今日、国民も新元号に馴染んだのか話題に上らなくなったが、小生は「令和」という元号に未だに馴染めない。

 令和おじさんによると、出典は万葉集「梅花の歌三十二首の序」の「初春は令月にして、気淑(きよ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」(大伴旅人)からの引用であると説明した。

 官邸の「梅」と「令」への拘りは何であろうか?

 安倍宗任(あべのむねとう)をご存じだろうか? 奥州の豪族だが「前九年の役」で源頼義軍に敗れて京に連行された時、貴族に梅の花を指さされ「これは何か」と問われると「わが国の梅の花とは見つれども大宮人はいかがいうらむ」
と返し、梅の花は安倍氏の花であると敗者の誇りを示した一首を詠んだと伝えられる。
 そして安倍晋三総理はその末裔に当たることから最高権力者への忖度ではないかという学者もいる。

 梅の花への忖度より馴染めないのが「令」の一字である。辞書では令の意味を一番に「命令する」「おきて」と表し、令嬢・令月など美しい意味と付け足したように説明している。

 そもそも「令」の文字の成り立ちは象形文字で、マの上に・を書き家の中で人がひざまずき権力者の命令に従う姿を現したものだというが、明朝体の活字を作る際に加工のしやすさから今の形になったものだという。

 このように令には命令するとの意味合いが強いことから、江戸時代の改元時に「令徳」が提案されたが「徳川幕府に命令を下すのか」と一蹴されたという。
 このような理由からか、長い日本の歴史の中で「令」は一度も元号に採用されずにきた。ちなみに「和」は20回も採用されている。

 小生の邪推かもしれないが、官邸は梅を称える歌の令月を採用し、令は美しい意味と説明したが、安倍氏「お印」の梅に拘り、令本来の命令する本意が隠され、戦後首相の誰もがやれなかった「改憲」への強い現れと感じられる。

第25回参院選

kage

2019/07/23 (Tue)

第25回参院選

 今月21日に行われた参院選に於いて、山形県は野党統一候補・芳賀氏の初当選の結果となり、全国では「自民、公明両党が改選過半数を超す71議席を得て勝利した」とマスコミは報じている。が、小生は「過半数を超す」とか「過半数を上回る」と言う表現に違和感を抱く。

過半数」とは、「全体の半分以上の数」という意味で、即ち100の場合51以上のことを意味し、「過半数を超す」は51を超える52以上と言うことてあり、「半数を超えると」「過半数を超える」には意味の違いがある。マスコミ各社はこのことを意識して報道しているのだろうか?

 「過半数」だけで半分を超えるということは明らかであるから、この場合は「半数を超す」とか「半数を上回る」とするのが正しいのではないかと思うが、NHKでさえも「過半数を超す」と伝えている。
 何故「過半数を超す」との言い回しを使うのか知りたいものだ。

 NHKと言えば今回の山形県選挙区に「NHKから国民を守る党」として小野澤健至氏が出馬した。政見放送をテレビで見たが共感するものはなく掲示板には選挙ポスターも張られていない。本当に当選を目指して立候補したものか疑問に思えたが、その候補者に13,800票もの札が入ったのには驚いた。

 参議院場合、選挙区に立候補するには300万円の供託金を払い、選挙の結果有効投票総数と議員定数の商の8分の1に満たない場合には没収となる。よって小野澤健至候補者は供託金没収となるが、それを踏まえて立候補の目的は何であったのか?

 うがった見方をすれば、芳賀候補と大沼候補が拮抗していることから芳賀候補の票を食わんとして誰かが差し向けたとも考えられる。
 小野澤健至候補者の13,800票は大沼候補者から流れたとは考えにくく、無党派層からではないかと思え、もう少し芳賀候補と大沼候補が拮抗すれば小野候補者の13,800票は大きな意義を持つことになるが、今回は功を奏することができなかったと推測する。

投稿に感謝!!

kage

2019/07/20 (Sat)

投稿に感謝!!

 この所、ブログ更新を怠っていたが、尚山氏をはじめとする投稿に感謝したい。

 当サイトを立ち上げて17年程になるが、当初は記事に対して市民・行政・市議・マスコミの関心度が高く、それなりの影響力が感じられたが、最近は各方面に慣れが生じ「鬼の会が又何か言ってるな」と反応は極めて少なく虚無感から筆が進まなかった。

 米沢を良くする会の7/19投稿「官製詐欺」などの問題は、行政トップや市議団が取り上げ改善策を講ずべきだが「公務員は偉いのだ、お上のやることに市民の分際でいちいち口出しするな」と江戸時代さながらの感覚から、市民の声は軽くあしらわれる。

 現在の日本の民主主義は太平洋戦争後に定められ70余年になるが、法の運用・解釈に付いては民が軽んじられ官の圧倒的優位性が顕著であり、その良い例が「住民訴訟」である。
 当市で市政130年の間に5件の争われた住民訴訟は「10月の工事遅滞は12月の降雪によるもので、施工業者に責任はない」の判決に見られるように裁判官の無茶苦茶な判断で全て住民敗訴である。
 米沢市の他にも長井市・天童市の官地売却に関する不法訴訟も複数の弁護士が関与しながら、一審では敗訴で控訴・上告の状態にある。

 ことに摩訶不思議な事件は「最上小国川ダム建設差止住民訴訟」である。
 この事件は、県が最上小国川上流にダムを建築する事から鮎の生態系に悪影響が生ずるとした住民・漁業組合が7人の弁護士の協力の下2012.09に「工事差止」を提訴したものであるが、その間県の圧力すさまじく2014.02漁業組合長は自殺に追い込まれている。
 そして提訴から7年を経た今月30日に判決が下されるが、その間工事は着々と進み高裁の判決時にはダムは完成している運びとなり、住民勝訴・敗訴に関わらず「工事差止」の効力は消滅する。
 以前は判決が出るまで工事にストップを掛けられたが「住民の声をいちいち聞いていたのでは円滑な行政運営が出来ない」との理由で「工事差止」が提訴されても行政は工事が出来るように骨抜きの法として運用され、住民の声は無視される。

尚山氏へ
 御指摘の通り、平和通り商店街は空き地だらけの無残な状態となった。数年前に松田医院の松田氏が提唱した中心市街地活性化構想を、安部市長・米沢商工会議所・平和通り商店街がこぞってぶっ壊さなければと思う今日この頃である。

 昨日の読売新聞でも大沼デパート撤退が取り上げられ、地方都市の衰退が伝えられているが、住民パワーによる自助努力には限界があり、市行政による国政への働きかけが肝要と思うが、市行政マン・市議団・商工会議所の面々に期待するのは夢の又夢であり、虚無感は続く。

無題-2