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色部長門と萱野権兵衛

kage

2018/05/22 (Tue)

色部長門と萱野権兵衛

 米沢市民で色部長門を知る人は少なくなった。まして萱野権兵衛など聞いた事もない時世であろう。 今年は戊辰戦争150年に当たる事から両氏について簡単に触れてみたい。

 鳥羽伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、薩長連合のテロリスト集団が官軍の名をかたり、それまで朝廷の護(まも)りであった会津藩を賊軍(朝敵)に仕立て上げ、東北に進攻した。
【色部長門】
 米沢藩は、薩長の東北進攻には義が無いと、奥羽越列藩同盟をもって薩長連合のテロリストと一戦を交える事となり、城代家老の色部長門は新潟港を守るべく、総督として戦地に赴いた。
 しかし、銃器に勝るテロリストには敵わず上杉軍は退却するも、このまま米沢に逃げ帰るのでは「武士の面目立たず」と死を覚悟で交戦したが銃弾に倒れ、関屋(現在新潟県)の地で果てたのであった。

 戊辰戦争で勝利を得たテロリスト達が、逆らった各藩の首謀者を差し出すよう命じたとき、米沢藩は戦死した色部長門を首謀者と報告した。
 色部家は当時、命より大事な家名を断絶する処分を受け、その処分に甘んじた事から、咎は領主に及ばず、米沢藩を護ったのであった。
【萱野権兵衛】
 萱野権兵衛は会津藩の城代家老で、戊辰戦争の責任者として名乗り出て切腹の処分を受けた事から、色部長門同様に会津藩(松平容保)を護った功労者である。

◆先賢顕彰・供養会
 ひょんな事から萱野権兵衛の供養会に参列する機会を得た。場所は萱野家の菩提寺「天寧寺」だが「近藤勇の墓」が有る事で知られている寺である。
 供養会は会津若松市長も参列し、詩吟・剣舞・舞踊が奉納されるなかなかのもので、今年は59回目という。
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 米沢の色部長門も下記の先賢顕彰・供養会を計画しているので多くの方の参加を願っている。
A4ポスター - コピー

いよいよ刑事告発③

kage

2018/05/18 (Fri)

いよいよ刑事告発③

 ナセバ建設の10・11月の工事遅滞は12月の豪雪が原因で、工事受注者に技術不足はないと結論づけた「地域と行政を支える技術フォーラム」と、米沢市監査委員会との会議録(録音)の存在を認めたことから、その議事録を求めた。
 提出期日に「あと一週間待ってください」とのことで待っていると、『消去したので「不存在」』との返事が返ってきた。

 慌てて消去しなければならない内容とは? 市民に公開出来ない内容とは? 行政にとって余程都合の悪い内容が録音されていたものと推測される。
 このように、国政・地方行政共に「都合の悪い公文書は、改竄するか不存在」が常套手段のようだ。

 このような場合、市民で構成される審査委員会に不服を申し立てる事が出来る。そこで書面を提出すると「法的な事には関与しない」と前置きし「不存在を確認した」との回答を行い、公文書毀棄行為には一切触れない審査委員会であった。
 行政のポチぶりを遺憾なく露呈する審査委員の態度に「審査会は誰のためにあるのか?」との大いなる疑問が沸いてくる。

 以上のような公文書の出鱈目な扱いは本市に限らず、国政や都議会でも行われ、国民・住民から複数の公文書毀棄罪刑事告発が為されている。
 そこで「住民は役人(公務員)の僕(しもべ)ではない」との思いから、「米沢市でも刑事告発を行うべし」と今般その行動に取りかかった。 事前に米沢警察署に相談しているが、警察官も公務員の立場から積極的に捜査に取り組む姿勢は感じられない。 同じ公務員の仲間意識からか「出来れば有耶無耶に」との思いが伝わってくる。

 米沢藩の志士「雲井龍雄」が「政権の座に就いた薩摩は、やりたい放題。許すまじ」と諸藩に訴えた「討薩檄」から150年。
 小生も「やりたい放題の公務員。許すまじ」との思いで、間もなく刑事告発を行う予定である。刮目願いたい。

いよいよ刑事告発②

kage

2018/05/17 (Thu)

いよいよ刑事告発②

 この所、国会は公文書の扱いで揉めているが、公文書とは「国または地方公共団体の機関、あるいは公務員がその職務上作成した文書」と定義され(電子媒体を含む)、内容によって保存期間が定められている。

 今般告発するのは「刑法258条:公文書毀棄罪」であるが、何故告発に至ったかを説明したい。

 「10・11月の工事遅滞は12月の豪雪が原因」と主張する当局と「工事遅滞の原因は、壁柱工法に対処出来なかった工事受注者の責任」と主張する小生らは、現在仙台高裁で争っているが、その前段として住民監査請求がある。

 小生らは住民監査請求で「10・11月の工事遅滞は受注者の技術不足」「責任は受注者にある」として「公金支出は違法」と米沢市監査委員会に申し立てた。
 監査委員は行政のポチなので返答に困り、市民の指摘は棄却する役目からその棄却理由を、学者や技師で構成される「地域と行政を支える技術フォーラム」に求めた。

 この「・・・技術フォーラム」は「専門技術者の立場で、技術的観点(法律の観点は含まない)から事実認定する」と前置きしておきながら「契約は適法」「契約金増額は適法」などと法的観点で殆どを埋め、技術的観点のくだりは「壁柱工法は特殊工法でない」と1行だけの報告書を市に提出したことにより、これを根拠に小生らの申し立ては棄却された。
 10・11月の工事遅滞の原因は技術不足と主張する問題に「壁柱工法は特殊工法でないので受注者に技術不足はなかった」とは恐れ入る。 10・11月の工事遅滞の原因については一言たりとも触れられていないこんな稚拙な報告書に市は30万円を支払ったのである。

 何故こんな出鱈目な報告書が作成されたのか? 監査委員が30万円を包んで「行政有利の報告書を作成してください」と頼んだのではないか? との疑惑から議事録の存在を確認すると「電子媒体で存在する」との監査事務局員の返答から、早速情報公開条例に則り、資料を請求した。

【続く】 




いよいよ刑事告発

kage

2018/05/16 (Wed)

いよいよ刑事告発

 「モリ・カケ」「セクハラ」問題など、官僚の体たらくがテレビを賑わしているが、国政に限らず公務員のやりたい放題は目に余る。

 折しも、今年は戊辰戦争150年の節目に当たり、明治維新と称して武士社会の幕府から明治政府に移行した150年でもある。
 武士社会の封建制度は幕府が絶対で、庶民が幕府に意見を述べようものなら「お上に逆らう不埒なやつ」と、命まで取られる社会であった。
 それが明治政府の天皇親政体制への転換、そして太平洋戦争後の民主主義に移行し、国民の権利が保障される時代になったとは言うものの、公務員に巣くう「国民・市民の分際で、お上に逆らうとは不埒なやつ」との思想は未だ健在のようだ。

 万世村人氏投稿のように、公務員を罰することは極めて難しく、小生らが何度も訴えてきた住民訴訟は、法律に関係なく「行政勝訴」の席が確保され、そこには「公務員は偉いのだ!! 市民の分際でガタガタ言うんじゃねぇ~」との声が聞こえてくるようだ。

 小生は、平櫛田中氏(木彫彫刻家)の「実践、実践、また実践。挑戦、挑戦、また挑戦。修練、修練、また修練。やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。今やらずしていつできる。やってやってやり通せ」に薫陶を受け、お上を相手に戦っても勝ち目がないと分かっていても、挑戦することに意義を感じている。

 これまで司法の場で争って来たのは「住民訴訟」だが、今回挑戦するのは「刑法258条:公文書毀棄罪」に抵触する刑事事件として、刑事告発を行おうとするものだ。

 過日、山形県警に出向いて公文書毀棄罪について相談し、この度米沢警察署にその旨を伝えた。この場合に「刑事告訴」か「刑事告発」かを質問すると、自分に直接危害や損害が及ばない場合は「告発」の申し立てとのこと。
 現在告発文をしたためているところ。
【続く】 

仙台高裁へ第2準備書面

kage

2018/05/15 (Tue)

仙台高裁へ第2準備書面

 この所ブログ更新が滞っていたが、その原因の多くが、現在戦っている仙台高裁へ期日まで提出する準備書面の作成だった。
 テレビなどで原告側と被告側が激しい論戦をする場面が多々見られるが、それは刑事事件の場合であって、民事裁判は書面のやり取りだけで、その書面は準備書面と称される。

 現在争っている裁判の内容は何度か掲載したが、改めて報告したい。

 完成を平成27年12月とする契約のナセバ建設工事だったが、完成したのは平成28年3月の3ヶ月遅れであった。その遅れに対して市は、「原因は豪雪と人手不足のため、受注者の責任は問えない」として3,000万円の追加工事料を支払った。

 この公金支出に、小生らは「10・11月で完成する予定の一階工事が、翌年3月まで延びた原因は、壁柱工法に対処出来なかった受注者の技術不足にある」として訴えたところ、「10・11月の工事遅滞は12月に例年より多くの降雪が有ったことと、翌年1月以降の職人不足が原因である」と市側は抗弁した。一審の山形地裁は「市側の言うとおり」として我々は敗訴した。

 12月の降雪と翌年1月以降の職人不足が、それ以前の10・11月の工事に影響を与える道理はないのだが、こんな出鱈目が通用するのが行政訴訟で、法律に関係なく「行政側勝訴」の判決が下される。

 ダメ元で、仙台高裁に「道理の通らない判決だ」と控訴した所、裁判長より市側に「工事遅滞の合理的理由を提出しなさい」との教示があり、それに対して市側は懲りずに「10・11月の工事遅滞は、12月の降雪と翌年1月以降の職人不足が原因」と一審と同じ抗弁を行った。
 我が方は「裁判によって10・11月の工事遅滞の原因を明らかにしてほしい」とする要約の反論を行ったのが今回の準備書面だ。

 今回は、宝くじ一等に当たるより大変な「正義の裁判長」に遭遇出来たのか否か? 「正義の裁判長」であることを祈るばかり。

上杉まつり考

kage

2018/05/05 (Sat)

上杉まつり考

 5/3天候があいにくの小雨模様の上杉行列は、これから松川河川敷で行われる模擬川中島合戦に参加する武者軍団を先頭に、小生らの「前田慶次」山車が続いた。

 今年は直江兼続400回忌の節目でもあり、米沢駅前で長谷堂の戦いを模したパフォーマンスを演じ、観客の注目を集めたが、主催者の米沢商工会議所にはあまり歓迎されなかったようだ。
 と言うのは、行列は警察の許可を得て、停滞なく時間通りに行進する事が条件であるから、主催者側からすれば好ましくなかったのであろうが、「時間通りに行列を進行するのが祭りの目的か?」との疑問も沸いてくる。

 松川河川敷の模擬川中島合戦を一度観たら、再度観てみたいと思う方は如何程であろうか。
 小生は日頃から「東京ディズニーランド」のリピーターが途切れない事に感心しているが、それには常に新しいイベントを取り入れて観客を飽きさせないスタッフの努力によるものと考える。
 そこで川中島合戦も本戦前に何らかのパフォーマンスを取り入れ、「今年は何を演じるだろう」とのわくわく感を観客に抱かせたいものだ。

 上杉謙信公から最後の藩主「茂憲(もちのり)公」までには数え切れないほどの物語がある。

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今年も参上「前田慶次」

kage

2018/05/02 (Wed)

今年も参上「前田慶次」

慶次
 5/3は、祭りのクライマックス上杉行列が慣行されるが、前田慶次のフィギュア山車で行列に参加して今年で5年目を迎える。折しも今年は直江兼続400回忌の節目でもあり、米沢駅前でのパフォーマンスを考えているが、どうも天気は雨模様である。これまでは好天に恵まれ雨の心配はなかったが、今年はどうであろうか。
 関ヶ原合戦の前哨戦として「長谷堂の戦い」が語り継がれているが、「東北の関ヶ原」として前田慶次と直江兼続とのエビソードを紹介したい。

◆「東北の関ヶ原」
 かぶき者で知られる前田慶次は上杉藩の智将・直江兼続を慕って上杉景勝に仕官し、出羽国で行なわれた長谷堂城の戦に参戦する。この戦は豊臣方に与する上杉軍と、徳川方に与する最上義光・伊達政宗軍との戦いで、「東北の関ヶ原」といわれる。
 関ヶ原合戦の数年前より会津の上杉景勝は石田三成と気脈を通じ、徳川家康討伐を計画して築城や兵の増強に着手していた。これを嗅ぎつけた徳川家康は、「上杉景勝に謀反(むほん)の嫌疑あり」と上洛しての釈明を求めたが「直江状」をもってこれを拒否した事から、慶長五年(千六百年)、徳川家康と諸大名連合軍は上杉討伐へ向けて軍を進めた。
 が、小山(現在の栃木県小山市)で石田三成挙兵の報を聞き、家康は「おのおの方の妻子は、大坂に人質にとられておるゆえ、さぞ心配でござろう。されば、これより速やかにこの陣を去り、大坂に舞い戻って治部(三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方しようとも、わしはいささかもおのおのの行動を恨みに思わぬ。我らが領内においては、行軍の心配もいらぬ。心置きなく上坂いたされよ」と諸大名に諮る軍議(小山評定)を開き、その結果軍を西に返した。
 逸話では家康が小山を去ったのを知った直江が上杉景勝に追撃を進言すると、景勝は「敵を後ろから攻撃するのは謙信の義に反する」と制したという。
 ちょうどこの時、上杉景勝は最上義光が酒田城を攻めようとしていることを聞き、兼続に最上領への侵攻を命じ、直江兼続を総大将とした上杉軍は、山形城からは南西約八キロのあたりに位置する長谷堂城を包囲した。
 長谷堂城が落ちれば、上杉軍は最上義光の山形城攻城戦に取り掛かる戦略であったが、長谷堂城を守る最上氏の重臣・志村光安は寡兵ながらも夜襲を仕掛けるなど巧みな戦術にて、兼続のいる本陣近くまで攻め寄った。
 兼続は春日元忠に命じ、さらに長谷堂城を激しく攻め立てたが、城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができないところへ最上軍は一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち付けた。
 その後、上杉勢は総攻撃を敢行するも、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦に及び、上杉軍は武将・上泉泰綱を失うなどの大きな痛手を受けた。
 長谷堂戦のさなか、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされ、兼続は盟友・義友の一人でもある石田三成を失い、戦意喪失して自害しようとした。
 この時、前田慶次は「一軍の将ともあろう者が、そのような気弱でどうする。わしらにお任せあれ」と兼続を諫め、上杉軍退却の殿(しんがり)役を申し出た。
 上杉軍は撤退を開始するも、最上伊達連合軍との追撃戦は、最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり、両軍多くの死傷者を出したが、この時、前田慶次は、難しい撤退戦を水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持つ豪士五名と兵三百にて、追撃する最上勢の中を縦横無尽に分け入って戦い、退いてはまた戦うと言う、一番危険な殿(しんがり)を、見事な戦術にて務め、更に武名を高めた。
 この戦法は、のちに日本陸軍が手本として研究し、士官学校で教えたくらいである。
 慶次の大活躍により、兼続は敵陣をふりきって米沢に戻る事が出来た事は、言わば前田慶次は直江兼続の「命の恩人」と言えるのではないか。
 前田慶次の活躍で直江兼続が撤退戦を完了させると、伊達政宗は「最上の兵が弱すぎて直江兼続を逃がした」といったそうですが、この時ばかりは最上義光の兵が弱いのではなく、前田慶次の武勇が凄すぎたのかもしれません。