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冬の花火

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2018/01/30 (Tue)

冬の花火
 
 花火は夏の風物詩だが、これを真冬に打ち上げる催しが2月4日(日)に開催される。今年で2回目だそうだが、プロの花火師を呼ぶ本格的な花火大会とのこと。

 主催は「西部地区克雪クリーン作戦対策協議会」で、「西部コミセン」が共催となっているが、相当数の西部地区住民がずいぶん前から準備し、当日も相当数が協力して大会を盛り上げる。

 昨今は、とかく地域住民のコミュニケーションが希薄となり、地域での催しが減っている中で、新たな継続事業を立ち上げた西部地区の皆さんには敬意を表したい。

・期  日: 2月4日(日)
・時  間: 午後5時40分
・観覧場所: 西部コミセン西側 
・駐 車 場: 西米沢駅南側(誘導員がいます)
        西部小学校東側( 〃 )
        米沢信用金庫御廟支店(誘導員はいません)
       きらやか銀行米沢西支店( 〃 )
花火

尚山氏へ[大沼デパート米沢店の去就]

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2018/01/25 (Thu)

尚山氏へ[大沼デパート米沢店の去就]

 昨年12月26日付け新聞報道によると、大沼百貨店は14年2月期から4期連続の経常赤字で業績は悪化していた。そこでマイルストーンターンアラウンドマネジメント(MTM)より経営支援を受け、経営再建計画を作成後にMTM社に経営権を譲る予定だという。
 経営再建計画には、売り場の中心となっている服飾の割合を減らし、食材やレストランなど食に関わる分野の拡大を盛り込む予定で、早期に山形本店、米沢店の大規模リニューアルに入り、「1、2年で結果を出したい」とMTM社の早瀬社長は語る。

 近年はショッピングモールの出現に、老舗の百貨店はどこも苦戦を強いられ、さしもの「大沼」もMTM社に経営権を譲るが、山形は「十字屋山形店」が今月いっぱいで閉店することから、その受け皿とする売り上げが期待できるが、米沢店の場合はどうであろうか。

 大沼米沢店の周辺は、お化け屋敷と恐怖のアーケードに、歯抜けのシャッター通りとくれば、「大沼」1店舗が頑張っても厳しいであろう。
 それに加えて、ヨークベニマルやイオンのショッピングセンター計画・ヤマザワのまちなか出店計画など、大沼囲い込みとも思える噂が聞こえる現況では、尚山氏の『「大沼米沢店」撤退』も可能性は高い。

 このような場合、行政は「民間事業には関わらない」とのスタンスである。いい例が、昨年の12月議会に於いて「ポポロとの覚書が白紙撤回となったが、市は当該地を今後どのように考えているか?」との海老名悟市議の質問に「民間に期待している」と答えたのが中川勝市長だ。
 
 海老名市議は続けて「市の計画を示し、民間と協力して活性化を図るべき」と質したが、中川市長は「出来る事からやって行く」としてナセバ南側道路を相互通行にする計画を述べた。

 数10億円をつぎ込んだ「中心市街地活性化計画」であるから、市が青写真を示し、民間に協力を持ちかけるべきだが、中川施政にはそれを期待しても無理。商工会議所も無理。良き指導者の出現に期待するのみ。
 

戊辰戦争と明治維新⑨

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2018/01/23 (Tue)

戊辰戦争と明治維新⑨

【新政府軍の新潟侵攻】
 元々新潟は幕府直轄領であったが、大政奉還後に幕府役人が逃亡したため、江戸城開城に反対した浪士達が集まるようになり、すると、治安は乱れ、新潟は大混乱の状態にあった為、新潟住民が米沢藩に統治を願い出た。
 米沢藩十二代藩主、上杉斉憲(なりのり)は、重臣である「色部長門」に軍命を下し、米沢藩総督として越後に向かわせ、色部は新潟の治安維持と新潟港の管理にあたり、陸と海から侵攻する政府軍と一戦を交えるようになる。

 雪の降る前に会津藩を落とそうとする政府軍と、奥羽越列藩同盟による、米沢藩を主力とする同盟軍の戦いが始まり、一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、新発田藩の寝返りや、銃備に勝る新政府軍の猛攻を受けて敗走し、「色部長門」は関屋(現在は新潟市中央区関屋)にて敵の銃弾を受け、動けなくなり自害する。

 その後の米沢藩は、最新兵器で武装した新政府軍との戦いは、犠牲者を増やすのみと、やむなく新政府軍に降伏した。そして、奥羽越列藩同盟の盟主である米沢藩が、早々と恭順の意を表し、それまで味方であった会津と庄内に新政府軍応援の兵を送ったため、「裏切り者」と称された。

 米沢藩降伏後、会津・庄内藩は戦いを続けるも、1866年11月庄内藩の恭順により東北での戊辰戦争は終わりを告げる。(翌年の函館戦争「五稜郭の戦い」までを戊辰戦争と言う場合も有る)

 かくして戊辰戦争から文明開化の明治の世となる訳だが、薩長藩による明治維新が正義であったか?には、「明治維新の過ち」の著者原田伊織氏の時代考察に共感する小生である。

 米沢藩十二代藩主、上杉斉憲(なりのり)、色部長門、雲井龍雄に付いては、さらりと触れたが、別の機会に再度述べたい。
 
【完】

戊辰戦争と明治維新⑧

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2018/01/22 (Mon)

戊辰戦争と明治維新⑧

【雲井龍雄、討薩の檄】
 雲井龍雄は、諸悪の元凶は薩摩藩にあるとして、東北諸藩に「討薩の檄」を送った。東北諸藩の士気は、この檄文により大きく鼓舞したとされる。(原文は米沢市役所東南の北村公園に碑に刻まれている)

 「討薩の檄」の原文は難しいので、以下の大意を参考にされたい。

【討薩の檄(大意)】
 薩摩は、最初攘夷を主張して、幕府の開国を貶めて批判していたのに、自分が権力を握ると開国を主張し始めた。なんの一貫性もなく、当初攘夷を主張していたのは自分の野望を遂げるためであった。この罪を問わなくてはならない。
 日本には、海外からの危機はあるといっても、日本固有の制度や歴史がある。 しかるに、薩摩が専制権力を握ってから、あまりにも急激で無理な改革を推し進め、長い歴史の中で積み重ねられてきた制度や慣習を破壊している。その罪をどうして問わずにいられよう。
 薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸国の得体の知れない人々の中で、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱(ぶんらん)の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。
 鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪(よこしま)な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
 薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。 しかるに、官軍を名乗って、それを太政官(だじょうかん)の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。
 諸般の、親子兄弟同士のいろんな大名たちを戦争に駆り立てさせている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、これこそ最も残酷な道徳に反することだ。その罪を問わなくてはならない。
 上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。 奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
 よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁(わきま)えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。
 
【続く】

戊辰戦争と明治維新⑦

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2018/01/21 (Sun)

戊辰戦争と明治維新⑦

【戊辰戦争と米沢藩】
 米沢藩は、1864年に世継ぎの手続き不手際から、三十万石から十五万石に減封された事もあり、幕府への忠誠心は、会津藩のそれとはかなりの温度差があった。
 1866年頃の世は、薩長同盟や第十四代徳川家茂(いえもち)逝去により、世は混乱の兆しを見せ、徳川慶喜(よしのぶ)が第十五代将軍に就いたものの幕府の権力は衰退し、薩摩藩の横暴が目立つようになってきた。
 そこで「雲井龍雄」を京都・江戸の情報収集に当たらせ、藩の今後の対応を模索していた。

 この頃、幕府は天領の地であった屋代郷三万七千石を米沢藩に与えているが、これは米沢藩の歓心を買うためと思われる。

 雲井龍雄の見立ては、「薩摩藩の態度はいずれの場合も事甚だしく悪辣で、まさに天下を毒するもの、今にして毒牙を封じなければ、悔いても及ぶまい」と、薩摩藩が悪の元凶と捉え、討薩論を展開するに至った。
 雲井龍雄が心配したように、薩摩藩は「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)を勝利し、倒幕のための軍を江戸に進めると、戦意を失った徳川慶喜はあっさりと恭順の意を示し、薩長藩による新政府が形成された。

 新政府に対し、米沢藩・会津藩を始め東北諸藩は恭順の意を示したが、会津藩だけは認められなかった。そこで、東北諸藩は会津藩の赦免を願い出るも、なんと新政府は東北諸藩に会津攻略を命じたのである。

 新政府の会津討伐令に、「なぜ会津が朝敵なのか?先の孝明天皇から最も厚い信頼を受けていたのは会津藩ではないか!会津が賊軍などと薩長軍が作った偽りにすぎない!会津は朝敵にあらず!我らが会津を討つ道理はない!」と、米沢、仙台藩、が強く反発した。
 これに他の東北諸藩も賛同、「ならば奥羽が一丸となって政府軍と戦おう!」と、団結の意を示し、盟友会津救援のため奥羽越列藩同盟を結ぶと、加茂(新潟県)で新政府軍と戦うべく軍議が開かれた。

【続く】

戊辰戦争と明治維新⑥

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2018/01/19 (Fri)

戊辰戦争と明治維新⑥

【公家と武士】
 我が国は古(いにしえ)より、天皇制国家として天皇を中心とする朝廷を形成し、公家は朝廷に仕えていた。一方、武力で天皇に奉仕する武家は、幕府として天皇の配下にあった。
 しかし、江戸時代ともなると幕府の権力が増大し、井伊直弼のように天皇の許可を得ず日米修好通商条約を結ぶなど、天皇の威光は弱まってきた。そこで大きく台頭してくるのが長州藩を中心とする「尊皇攘夷論」である。

 「尊皇攘夷論」とは、外国勢を打ち払い、天皇を尊ぶと言うのであるから、朝廷にとって悪い話では無いが、長州藩のやり方が余りにも過激な為に、朝廷も痛し痒しであった。
 幕府(徳川慶喜)は、蛤御門の変で朝敵と見なされた長州藩を成敗すべく(第二次長州征伐)天皇の指示を待ったが、ノラリクラリと態度を保留している間に、水面下では、薩摩藩と長州藩は同盟を結び、公家の岩倉具視と通じて、幕府が兵を挙げるのを手ぐすね引いて待っていた。すると、薩摩藩による江戸での火付け強盗などの挑発から、庄内藩が江戸薩摩邸に火を放ち、鳥羽伏見の戦い(1868年)が勃発した。

 この時、岩倉具視は天皇に許可を得る事無く、こっそりと制作した「錦の御旗」を薩長軍に与えたことから、以後、「錦の御旗」を掲げる薩長軍が官軍で、それに弓引く諸藩は朝敵となり、鳥羽伏見の戦いは薩長軍の勝利となった。

 公家の岩倉具視の思惑は、鎌倉時代に源氏と平家をうまく操り、朝廷が政権を維持したように、薩長藩に「錦の御旗」を与える恩を売り、倒幕後は15才の明治天皇を蔑(ないがし)ろにして、自分が天皇職に就こうとしたのではなかろうか。

 薩摩藩の大久保利通は、新政府への公家の関与を嫌って、京の天皇を江戸に移したことから、明治政府での公家の存在は薄いものとなった。

 攘夷を掲げ手にした新政府であるから、外国勢を打ち払って鎖国を続けるのが筋であろうが、政権の座に就いた明治政府は外国との交易を盛んにし、急激に西洋文化を吸収して富国強兵へと突き進むのである。これでは江戸幕府のパクりではないか。
 これら一連の薩長藩の行いを「勝てば官軍」と揶揄(やゆ)されるようになった。

 政権を手にした薩長藩は、海軍の薩摩、陸軍の長州として藩閥を形成し、明治政府を軍国主義国家へ進めたのである。

 以上を観ても、明治維新とは薩長藩による「政権奪取」が目的で、尊王攘夷は倒幕の手段であった事が理解できよう。

【続く】

戊辰戦争と明治維新⑤

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2018/01/18 (Thu)

戊辰戦争と明治維新⑤

【歴史認識のあやふや】
 小生は、「我が国は江戸幕府が鎖国を行っていたので西洋に後れを取っていた。薩長連合軍が江戸幕府を倒し、海外諸国と交流したので日本の近代化が進んだ」と認識していた。
 しかし、1858年に、江戸幕府の大老、井伊直弼が日米修好通商条約に調印し、開国した事にテロを持って阻止したのが、尊皇攘夷論を掲げる長州藩達であった。

 尊皇攘夷とは、天皇を敬い外国勢を打ち払うという思想であり、長州藩はバリバリの攘夷派であるから、開国を目指す江戸幕府と、鎖国を続けようとする長州藩との諍(いさか)いが戊辰戦争に繋がったと考えられる。
 
 不可解なのは西郷隆盛の薩摩藩だ。当初は長州藩の尊王攘夷論に対して、公武合体論(こうぶがったいろん=公は天皇、武は幕府)で、会津藩と共に長州藩と戦っていたのに、突如、薩長同盟(1866年)を締結し、長州藩と共に「倒幕」へと態度を豹変させるとは。

【坂本龍馬の暗躍】
 この薩長同盟は「坂本龍馬」が仲立ちしたとされている。この頃の龍馬は海外と貿易し、優秀な海外の兵器を国内で販売しようと考えていた。そこで目を付けたのが、薩摩藩と長州藩である。
 外国を排除する攘夷論者の長州藩が海外と交易することには矛盾があるが、龍馬は、長州藩の真の目的は尊王攘夷に非ずして、倒幕後に政権を掌握することにあると読んでいた。
 又、薩摩藩も「蛤御門の変」の後は、倒幕後に政権を掌握する野望のある事を感じていた。

 この青天の霹靂とも言える薩長同盟が成立するには、次の事件が両藩に大きな影響を与える。

■1863年 生麦事件(薩英戦争)
 薩摩藩の行列を横切ったとして、イギリス人たちを殺傷する。怒ったイギリスは、艦隊を鹿児島湾に派遣して街を砲撃した。薩摩藩は応戦するも完敗する。
■1863年 下関事件
 薩英戦争と同じ1863年、長州藩は下関沖を通る外国船(アメリカ、フランス、オランダ)を次々と砲撃した。怒った外国勢は翌年17隻の連合艦隊を編成して砲撃したので、敵わないと思った長州藩は和睦する。

 このように、薩長藩は、外国の兵器が優れ、争っても敵わない事を痛いほど学習した。
 
 坂本龍馬は、水と油の関係の薩摩藩と長州藩を結びつけるのは、両藩の真の目的である「倒幕後の政権掌握」にあると考え、「薩摩藩と長州藩が手を組み、私が兵器を提供すれば江戸幕府を倒す事が可能である」と持ちかけたのであろう。

 この時、幕府に武器購入を持ちかけなかったのは、未だ勢力を保っていた幕府が強力な武器を手にしたのでは、諸藩は恐れをなし、大きな争いに発展はしないと読んだのであろう。
 
【続く】

戊辰戦争と明治維新④

kage

2018/01/17 (Wed)

戊辰戦争と明治維新④

 戊辰戦争から10年ほど遡り、もう一度戊辰戦争までを復習してみたい。

■1858年 日米修好通商条約
 江戸幕府の大老、井伊直弼は、日米修好通商条約に調印し、神奈川・長崎・兵庫・新潟の港を開き、自由に貿易を行う日本の開国近代化を断行した。
■1860年 桜田門外の変
 井伊直弼は、吉田松陰はじめ、開国に反対の尊皇攘夷派(天皇を尊び、外敵を斥けようとする思想)を厳しく粛正したことから反感を買い、水戸藩士に暗殺される。
■1862年 京都守護職の設置
 桜田門外の変の後、京に過激な尊皇攘夷派が集まり、治安が悪化した事から、幕府の命を受け「会津藩主・松平容保」が要職に就く。
■1863年 八月十八日の政変
 会津藩主導にて、長州藩の過激な尊皇攘夷派を京より排除する。
■1864年 池田屋事件
 長州藩の過激な尊皇攘夷派は京に火を放ち、天皇を拉致しようと会談しているとき、新撰組に踏み込まれ、首謀者は粛正された。
■1864年 蛤御門の変
長州藩は、京都守護職の会津藩を滅ぼそうと武力を持って侵攻したが、会津藩・薩摩藩協力の抗戦にて長州藩は敗戦し、以後朝敵となる。
■1866年 薩長同盟
 これまで「公武合体派」(天皇と幕府が協力して政を行う)として、会津藩と行動を共にしてきた薩摩藩が、事もあろうに、これまで敵対してきた長州藩と手を結んだ。(坂本龍馬の暗躍)
■1867年 孝明天皇の崩御
 孝明天皇が崩御し、代わってまだ15歳の少年、睦仁(むつひと)が天皇となる。(公家の岩倉具視の台頭)
■1867年 大政奉還
 幕府の衰退と、薩長の勢力拡大に、第15代将軍徳川慶喜は明治天皇に政権を返上したが、明治天皇には政を司る能力は無く、新政体のもとでも幕府は実権を掌握出来る状態にあった。
■1867年 薩摩藩の幕府挑発
 薩摩藩は、武力闘争によって幕府を滅ぼそうと、江戸で放火や強盗の挑発を行った。江戸警護に当たっていた庄内藩は耐えかねて薩摩藩邸を焼き討ちしたことから、幕府と薩摩藩の交戦気分が高まった。
■1868年 鳥羽・伏見の戦い
 徳川慶喜は長州征伐のため大阪にいたが、江戸の庄内藩の行動に触発され、会津藩と共に京の鳥羽・伏見にて薩長軍と一戦を交えるが、朝敵であったはずの長州が「錦の御旗」を掲げた事から、幕府軍の士気は下がり、惨敗に終わる。(岩倉具視の暗略)
■1868年 江戸無血開城
 勢いづいた薩長藩は江戸を攻め落とすべく軍を進めたが、勝海舟と西郷隆盛の会談の結果、争う事無く幕府は新政府に江戸城を明け渡した。
■1868年 奥羽越列藩同盟
新政府は恭順の意を示す会津藩を認めず、討伐の軍を進める事に、奥羽越諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、政府軍と戦った。
■1869年 箱館戦争
 五稜郭の戦いで幕府軍と新政府軍の戦争は終結するが、1869年は己巳の年のため、「己巳の役(きしのえき)」とも言われる
【続く】

戊辰戦争と明治維新③

kage

2018/01/16 (Tue)

戊辰戦争と明治維新③

【新政府は、何故、会津藩に過酷な制裁を加えたか?】
 会津藩が京都守護職任命(1862年)された頃の日本は、外国を排除し、天皇主体の政治を行っていこうとする「尊王攘夷派」と、幕府と公家が協力して政治を行っていくべきだとする「公武合体派」に分かれていた。

 会津藩は公武合体派として、尊王攘夷派の中でも武力行為でことを進めようとする強硬派(主に長州藩)に対し、京都見廻組及び新撰組を用いて戦い、過激な長州藩士を京都より追い出す事に成功した「八月十八日の政変」(1863年)があった。

 その後、京都から追い出された攘夷派は池田屋にて「京都に火を放ち、天皇をさらっていこう」とする会合を行うが、新撰組に嗅ぎつかれ、攘夷派9人が討ち取られた。世に言う池田屋事件(1864年)である。

 この池田屋事件をきっかけに攘夷派の怒りが爆発し、長州藩は京都に進軍。御所の蛤御門付近で、京都守護職の会津藩と戦闘になり、御所内に侵入するところまで行ったが、薩摩藩の活躍によって長州藩は撤退した。
 この際、長州藩は御所に向けて発砲したことで朝敵とみなされ、賊軍として責任者は切腹させられた。(第一次長州征伐)
 これが世に言う蛤御門の変(1864年)であるが、この時、薩摩藩は会津藩と同じく「公武合体派」として長州藩と戦った事と、長州藩が朝敵であった事をご記憶願いたい。

 かように、長州藩と真っ向交戦を行ったのは会津藩であり、多くの同士を失った長州藩にとっては「にっくき会津藩」とする感情が、戊辰戦争とその後の会津藩への対応ではなかったか?

 又、その後も続く庄内藩や五稜郭の戦いに、新政府軍の強さを知らしめ、逆らえばこのように扱われるという見せしめ効果を狙ったかもしれない。
【続く】

戊辰戦争と明治維新②

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2018/01/15 (Mon)

戊辰戦争と明治維新②

 大阪城に居た徳川慶喜(よしのぶ)は、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍劣勢を知り、江戸城に逃げ帰ったことから士気は下がり幕府軍は惨敗した。
 新政府軍はその後、江戸を侵攻すべく軍を進めたが、慶喜は恭順の態度をとって謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した事から、慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)に旧幕府陸軍総裁の勝海舟と、西郷隆盛が会談し、勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。この交渉により戦禍を被る事無く江戸城は新政府軍に明け渡された。これが世に言う「江戸無血開城」である。

 しかしその後、「彰義隊の戦い」のように抗戦を叫ぶ旧幕臣たちとの争いが随所で勃発したが、武力に勝る東征軍には敵わず、殆どの戦いは鎮圧された。

 一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保(かたもり)は会津へ戻り、新政府に哀訴嘆願書を提出して天皇への恭順の姿勢を示したが、新政府は認めず、奥羽諸藩に会津藩討伐令が出された。
 これに、奥羽諸藩は会津藩の赦免を新政府に斡旋したが受け入れられず、ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟(31藩)を結成するにいたり政府軍と対決することとなる。

 以上は、これまで広く世に知られた戊辰戦争の経緯だが、ここで、会津藩主松平容保(かたもり)が朝敵とみなされた事と、敗戦を喫して長く辛酸を舐める過酷な制裁が科せられた事への疑問が生ずる。

【新政府は、何故、会津藩に過酷な制裁を加えたか?】
 桜田門外の変(1860年)の後から、京都には強行的な攘夷派(主に長州藩)が入ってきて暴威を奮い、治安は乱れに乱れていた。そこで京都の治安を守るために1862年に「京都守護職」(いわば警察)が設置され、会津藩が引き受けることになる。
 この職は莫大な金がかかるので引き受けたくは無かったが、会津藩藩祖・保科正之が定めた家訓「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず(幕府には忠勤を尽くしなさい。他の藩がそうだったからといって、会津もそれに倣うことはしてはならない)」という文に従って、京都守護職を引き受けることになる。

 この「京都守護職」が後の会津藩に多大な影響を及ぼす事となる。
【続く】


戊辰戦争と明治維新①

kage

2018/01/13 (Sat)

戊辰戦争と明治維新①

戊辰戦争の発端「鳥羽伏見の戦い」
 江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上した。これが世に言う「大政奉還」だが、この時点で天皇に政(まつりごと)を行う能力は無く、大政奉還後もこれまで通り幕府が政を行う事に変わりは無かった。

 薩摩・長州の目的は大政奉還に有るのでは無く、徳川幕府からの政権奪取であったため、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らは徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞職と領地の返納)を決定し、徳川幕府の勢力を徹底的に排除し倒幕方針を採ろうとしていた。
 しかし、何も悪い事をしていない徳川幕府から武力で政権を奪うのでは、世間の納得を得る事は出来ないと考え、西郷隆盛は薩摩藩の藩士らに命じて、1867年10月ごろから江戸で放火や強盗を行うなどして旧幕府勢を挑発したのであった。

 江戸警備に当たっていた庄内藩士らは、その挑発にのってしまい12月25日に薩摩藩邸を焼き討ちにする事件を起すと、これをきっかけとして、ついに大阪城にいた旧幕府勢も1868年1月3日に京都の鳥羽・伏見に向かって兵を挙げたのが鳥羽伏見の戦いだ。
 兵は、幕府軍15,000に対して、薩摩藩、長州藩ら新政府軍は5,000ほどで、当初は一進一退の攻防が繰り広げられていた。

 そもそも、この戦いは薩摩藩と旧幕府側の勝手な私闘。つまり、本来、朝廷には関係がないのだが、岩倉具視が官軍の証である「錦の御旗」を制作するよう薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎に指示し、1月4日、新政府軍は勝手に作った、この「錦の御旗」を掲げて進軍した。

 これは朝廷の軍であることを表す旗で、天皇が認めた証になり、敵対する者は賊軍とみなされてしまうので、旧幕府軍としては、天皇の象徴に向かって弓を引くなんてできないと、士気は下がるばかりであった。
 また、どちらにつくか態度を曖昧にしていた諸藩も天皇の敵になることを恐れて新政府支持を次々に表明。天皇への忠誠を示すために新政府側に寝返る藩も続出となった。
 この状況に慶喜は突如、大阪から江戸に戻ってしまい幕府軍は自滅するように大敗してしまったのである。

 鳥羽伏見の戦いの後も旧幕府軍と新政府軍の戦いは続き、この年が干支で言う戊辰の年であったので、「戊辰戦争」と呼ばれている。
【続く】

明治維新の過ち

kage

2018/01/09 (Tue)

明治維新の過ち
明治維新
 今年は満で数え明治150年の年からか、NHK大河ドラマ「西郷どん」が7日より放映された。
 歴史とは、とかく勝者の目線で語り継がれるものなので、明治維新は薩長同盟の功績により近代日本が誕生したと伝えられるが、これを真っ向否定し、会津藩からの目線で述べたのが、原田伊織著「明治維新の過ち」と題する著書である。

 当著書は2015年に発売され、当時一部で話題となっただけであったが、戊辰戦争150年と言う事もあり、今年は池上彰がテレビで紹介するなど、戊辰戦争を別の角度から考察する気運も高まりつつある。

 会津若松市は「戊辰戦争150年」を好機と捉え、様々な催しを企画しているようだが、米沢市の場合は至って静かである。そこで小生等は微力ながら「米沢の戊辰戦争」を世にピーアールすべく計画を練っている。

 「米沢の戊辰戦争」と言えば、なんと言っても「色部長門」と「雲井龍雄」を取り上げたい。
 両者とも反薩長の首謀者的存在のため、明治政府に気遣いし、米沢に於ける功績評価はタブーとされてきた。しかし150年経った今年は「色部長門」と「雲井龍雄」に光を当ててみたい。

 現代に於いて両者とも話題に上る事は希で「何をした人?」というのが米沢市民の大半ではなかろうか。
 そこで浅学菲才の小生ながら、両者について当ブログにて簡単に紹介してみたい。
【続く】
 

柴田氏へ[ナセBAの愛称]

kage

2018/01/05 (Fri)

柴田氏へ[ナセBAの愛称]

  ナセBAの愛称は、選考委員会が公募作品の中から佐藤敦子氏(米沢市)の原案「naseBA」をもとに、「ナセBA」という愛称に補作したとある。
 そして次の選考理由が添えられている。
・「ナセBA」は、米沢藩9代藩主上杉鷹山公の名言の一つ「なせばなる」に由来するもので、鷹山公を尊敬する市民の皆様にも広く知られている有名な言葉である。
・「ナセBA」のBAは、BOOK(本=図書館)とART(芸術=市民ギャラリー)の頭文字BとAを組み合わせたもので、図書館と市民ギャラリーからなる施設のイメージを表現している。

 当時、愛称が公表されると、逆読みすれば「安部さん」ではないか」と物議を醸し出し、米沢新聞の記事にもなった経緯がある。なるほど原案の「naseBA」を目にしたとき、逆読みで「安部さん」は連想しやすく、選考委員は当時の安部市長への忖度から、この応募作品を選んだのかもしれない。

 選考委員会が決定したとあるが、問題は委員名が公表されていない。行政は得てして、学識経験者・知識人・市民代表などの名を連ねて、「○○選考委員会」や「○○検討委員会」の決定によるものであると公表する。
 選考委員を選ぶのは行政側であるから、決して行政に逆らわない人物(行政のポチ)を選び、「行政が一方的に決断したのでは無い」との姑息な手法で住民の批判を躱(かわ)そうとするのが常套手段であるから、「ナセBAは安部市長への忖度から名付けられた」とみるのは、あながち見当違いとは言えないだろう。

 ところで、ナセBAは「中心市街地の活性化」を目的にするものであったが、「只読み目的の図書館利用者で、中心市街地が活性化するはずは無い」との建設反対意見に「青森のアウガ(図書館とテナントビル)が成功例である」とのたまったものだが、そのアウガは経営破綻し、青森市は「駅前庁舎」として市役所の窓口機能を「アウガ」に移転した。
 
 米沢市は、市庁舎建て替えを御多分に漏れず「検討委員会」で計画が進められているとされるが、市民には、「ナセBAに市役所の窓口機能を!!」との要望が少なからず有ることから、青森市の「アウガ」に習って市役所窓口の分散化も検討すべきであろう。

新春を迎えて

kage

2018/01/02 (Tue)

新春を迎えて
金のなる木
 新春を迎える度に「今年は良い年でありますように」と願うのが人の常だが、区切りの良い平成30年の今年はどんな年であろうか。

 私事だが、昨年秋に知人より高さ1mを超える「金のなる木」の鉢植えを頂いた。「30年間も育てたが、80才を超える今では手入れが行き届かないので貰ってほしい」とのことだ。
 鉢植え植物にも「老老介護」の問題が生じてきたかと、いささか複雑な心境を抱きながら玄関に飾ったところ、年末に向け薄ピンク色の5㎜程の花が見事に開花した。
 「金のなる木に花が咲く。こいつは春から縁起が良いわい」と、今年の幸運を祈る小生だが、はたして如何なる平成30年であろうか?

 本市にとっての今年は、直江兼続400回忌、戊辰戦争150年、帝人創立100周年の年であり、来年の鷹山公入部250年へと続く節目の年でもある。そこで、市・商工会議所・観光協会にイベントの計画を問い合わせたが、今のところ具体策は聞く事が出来なかった。

 公がやらねば「市民活力」で!!と有志を募り、下記を企画しているが、戊辰戦争を共に戦った、会津藩、庄内藩に声がけし、是非米沢にと願っている。
■直江兼続400回忌
 ・兼続の「禅林文庫」と鷹山公の「興譲館」をテーマとした「藩校サミット」
 ・兼続の盟友「石田三成」が最大の信頼を寄せていた「大谷吉継」の末裔を招聘しての講演会。

■戊辰戦争150年
 ・講演会:戊辰戦争を会津藩から見た米沢藩(2/3決定)。
 ・関屋(新潟)の色部長門追念碑前祭。(50人乗りバスを手配)
 ・米沢市の色部長門追念碑前祭。講演会。
 ・雲井龍雄、討薩の檄(米沢市北村公園)碑前際。東北大教授の講演会。 等